彼の頭の中には疑心と憂鬱と焦慮《しょうりょ》と情熱が、まるでコクテイル・シ※[#小書き片仮名ヱ、28−上段−1]ークのように攪《か》き廻された。彼は何をしでかすか解らない自分に、監視の眼を見張りだした。
 川沿いの並木道が長く続いていた。二人の別れる橋の灯が、遠く靄の中に霞んでいた。街灯の光りを浴びた蒼白いシイカのポオカア・フェスが、かすかに微笑んだ。
――今日の話は皆んな嘘よ。私のお父さんはお金持でもなければ何んでもないの。私はほんとは女優なの。
――女優?
――まあ、驚いたの。嘘よ。私は女優じゃないわ。女が瞬間に考えついたすばらしい無邪気な空想を、いちいちほんとに頭に刻みこんでいたら、あなたは今に狂人になってしまってよ。
――僕はもう狂人です。こら、このとおり。
 彼はそう言いながら、クルリと振り向いて、女と反対の方へどんどん、後ろも見ずに駈けだして行ってしまった。
 シイカはそれをしばらく見送ってから、深い溜息をして、無表情な顔を懶《ものう》げに立てなおすと、憂鬱詩人レナウのついた一本の杖のように、とぼとぼと橋の方へ向って歩きだした。
 彼女の唇をかすかに漏れてくる吐息とともに、落葉を踏む跫音《あしおと》のように、……

  君は幸《さち》あふれ、
  われは、なみだあふる。

     6

 いつもの果物屋で、彼がもう三十分も待ち呆けを喰わされていた時、電話が彼にかかってきた。
――あなた? ごめんなさい。私、今日はそっちへ行けないのよ。……どうかしたの?
――いいえ。
――だって黙ってしまって、……怒ってるの?
――今日の君の声はなんて冷たいのかしら。
――だって、雪が電線に重たく積っているんですもの。
――どこにいるの、今?
――帝劇にいるの。あなた、いらっしゃらないこと? ……この間話したあの人といっしょなのよ。紹介してあげるわ。……今晩はチァイコフスキイよ。オニエギン、……
――オニエギン?
――ええ。……来ない?
――行きます。
 その時彼は電話をとおして、低い男の笑声を聞いた。彼は受話器をかけるといきなり帽子を握った。頬っぺたをはたかれたハルレキンのような顔をして、彼は頭の中の積木細工が、不意に崩れて行くかすかな音を聞いた。

 街には雪が蒼白く積っていた。街を長く走っている電線に、無数の感情がこんがらかって軋《きし》んで行く気味の悪い響が、こ
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