れて揺れて、笑ったが、彼女の瞳からは、涙が勝手に溢れていた。

 しばらくすると、シイカは想いだしたように、卓子《テーブル》の上の紙包みを解《ほど》いた。その中から、美しい白耳義《ベルギー》産の切子硝子《カットグラス》の菓子鉢を取りだした。それを高く捧げてみた。電灯の光がその無数の断面に七色の虹を描きだして、彼女はうっとりと見入っていた。
 彼女の一重瞼をこんなに気高いと思ったことはない。彼女の襟足をこんなに白いと感じたことはない。彼女の胸をこんなに柔かいと思ったことはない。
 切子硝子がかすかな音を立てて、絨氈《じゅうたん》の敷物の上に砕け散った。大事そうに捧げていた彼女の両手がだらりと下った。彼女は二十年もそうしていた肩の凝りを感じた。何かしらほっとしたような気安い気持になって、いきなり男の胸に顔を埋めてしまった。
 彼女の薬指にオニックスの指輪の跡が、赤く押されてしまった。新調のモーニングに白粉の粉がついてしまった。貞操の破片が絨氈の上でキラキラと光っていた。

 卓上電話がけたたましく鳴った。
――火事です。三階から火が出たのです。早く、早く、非常口へ!
 廊下には、開けられた無数の部屋の中から、けたたましい電鈴《りん》の音。続いてちょうど泊り合せていた露西亜《ロシア》の歌劇団の女優連が、寝間着姿のしどけないなり[#「なり」に傍点]で、青い瞳に憂鬱な恐怖を浮べ、まるでソドムの美姫のように、赤い電灯の点いた非常口へ殺到した。ソプラノの悲鳴が、不思議な斉唱を響かせて。……彼女たちは、この力強い効果的な和声《ハアモニイ》が、チァイコフスキイのでもなく、またリムスキイ・コルサコフのでもなく、まったく自分たちの新らしいものであることに驚いた。部屋の戸口に、新婚の夫婦の靴が、互いにしっかりと寄り添うようにして、睦《むつま》しげに取り残されていた。
 ZIG・ZAGに急な角度で建物の壁に取りつけられた非常|梯子《ばしご》を伝って、彼は夢中でシイカを抱いたまま走り下りた。シイカの裾が梯子の釘にひっかかって、ビリビリと裂けてしまった。見下した往来には、無数の人があちこちと、虫のように蠢《うごめ》いていた。裂かれた裾の下にはっきりと意識される彼女の肢《あし》の曲線を、溶けてしまうように固く腕に抱きしめながら、彼は夢中で人混みの中へ飛び下りた。

――裾が裂けてしまったわ。私はも
前へ 次へ
全20ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
池谷 信三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング