ところに巻きつけていることを考えていた。
今日はホテルで会う約束だった。シイカが部屋をとっといてくれる約束だった。
――蒸《む》すわね、スチイムが。
そう言ってシイカが窓を開けた。そのままぼんやりと、低い空の靄の中に、無数の灯火が溶けている街の風景を見下しながら、彼女がいつものマズルカを口吟《くちずさ》んだ。このチァイコフスキイのマズルカが、リラの発音で、歌詞のない歌のように、彼女の口を漏《も》れてくると、不思議な哀調が彼の心の奥底に触れるのだった。ことに橋を渡って行くあの別離の時に。
――このマズルカには悲しい想い出があるのよ。といつかシイカが彼を憂鬱にしたことがあった。
――黒鉛ダンスって知ってて?
いきなりシイカが振り向いた。
――いいえ。
――チアレストンよりもっと新らしいのよ。
――僕はああいうダァティ・ダンスは嫌いです。
――まあ、おかしい。ホホホホホ。
このホテルの七階の、四角な小部屋の中に、たった二人で向い合っている時、彼女が橋の向うの靄の中に、語られない秘密を残してきていようなどとはどうして思えようか。彼女は春の芝生のように明るく笑い、マクラメ・レースの手提袋から、コンパクトをとりだして、ひととおり顔を直すと、いきなりポンと彼の鼻のところへ白粉《おしろい》をつけたりした。
――私のお友だちにこんな女《ひと》があるのよ。靴下止めのところに、いつも銀の小鈴を結《ゆわ》えつけて、歩くたびにそれがカラカラと鳴るの。ああやっていつでも自分の存在をはっきりさせておきたいのね。女優さんなんて、皆んなそうかしら。
――君に女優さんの友だちがあるんですか?
――そりゃあるわよ。
――君は橋の向うで何をしてるの?
――そんなこと、訊かないって約束よ。
――だって、……
――私は親孝行をしてやろうかと思ってるの。
――お母さんやお父さんといっしょにいるんですか?
――いいえ。
――じゃ?
――どうだっていいじゃないの、そんなこと。
――僕と結婚して欲しいんだが。
シイカは不意に黙ってしまった。やがてまた、マズルカがリラリラと、かすかに彼女の唇を漏れてきた。
――だめですか?
――……
――え?
――おかしいわ。おかしな方ね、あんたは。
そして彼女はいつものとおり、真紅な着物の薊《あざみ》の模様が、ふっくらとした胸のところで、激しい匂いを撒き散らしながら、揺
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