見てゐるものであり、而もその精進の方法が芸術的な生活、若しくは芸術に於ける努力そのものと全く一のものであると見てゐるものである。
 そしてかくの如く見て来れば、生への意志を否定しようとしたシヨオペンハウエルに対して、所謂権力への意志を押立てゝ、再び、而もより力強く生への意志を肯定しようとしたところのニイチエは、右の如き見地からする時それだけシヨオペンハウエルから遠ざかつて、丁度又それだけ大乗的仏教思想の方へ近付いて来てゐるものと言ふべきではなからうか。
 勿論、ニイチエはあのやうに強調して生の肯定を言つて居り、大乗仏教若しくは大乗的な目で見た仏陀の教は、少くともそれが仏教である限りに於て、兎も角も生を肯定するよりもむしろ、否定したと、然う言はざるを得ないであらう。
 併し乍ら、ニイチエもあんなに屡々没落を愛するものとして超人を説き、また奴隷道徳に対する支配者道徳としての、賤民道徳に対する貴族道徳としての、あの特殊な自制や、克己や、悲壮に生きることや、太陽の温熱を分つが如く施与することの美徳をさへ主張してゐる点からすれば少くともその限りに於て彼の所謂「大いなる生の肯定」へ、何等かの制限を
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