目の団十郎にこんな逸話がある。それは或る時座敷に招《よ》ばれて、その席上で荒事を所望されたので、立上って座敷の柱をゆさゆさと揺ぶり、「これが荒事でございます」といったら、一同|喝采《かっさい》して悦んだという事が或る本に書いてあった。
七
印地打が朝鮮渡来の風習だという事は前に言ったが、同じ節句の柏餅も、やはり支那かもしくは印度《インド》あたりから伝えられたものであろう。というのは、今でも印度辺りでは客に出す食物は、大抵木の葉に盛って捧げられる風習がある。つまり木の葉は清浄なものとしてあるのだが、それらのことが柏餅を生み椿餅を生み、そして編笠餅《あみがさもち》や乃至《ないし》桜餅を生んだと見ても差支えないように考える。
殊に昔、支那や朝鮮の種族が、日本へ移住した数は尠《すく》なからぬので、既に僧行基が奈良のある寺で説教を試みた時、髪に豚の脂の匂いのする女が来て聴聞《ちょうもん》したという話がある位、従ってそれらの部落で膳椀《ぜんわん》の代りに木の葉を用いたのが、伝播《でんぱ》したとも考えられぬ事はない。唯《ただ》幸いにして日本人は肉が嫌いであったがため、あの支那料
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