ている。
 その頃の上野には御承知の黒門があって、そこから内へは一切物売を厳禁していたから、元の雁鍋の辺から、どんどん[#「どんどん」に傍点]と称していた三枚橋まで、物売がずっと店を出していたものだったが、その中で残っているのは菜の花の上に作り物の蝶々を飛ばせるようにした蝶々売りと、一寸か二寸四方位な小さな凧《たこ》へ、すが糸で糸目を長く付けた凧売りとだけだ。この凧はもと、木挽町《こびきちょう》の家主で兵三郎という男が拵《こし》らえ出したもので、そんな小さいものだけに、骨も竹も折れやすいところから、紙で巻くようにしていわゆる巻骨《まきぼね》ということも、その男が工夫した事だという。
 物売りではないが、紅勘《べにかん》というのはかなり有名なものだった。浅黄《あさぎ》の石持で柿色の袖なしに裁布《たっつけ》をはいて、腰に七輪のアミを提《さ》げて、それを叩いたり三味線を引いたりして、種々な音色を聞かせたが、これは芝居や所作事にまで取り入れられたほど名高いものである。

       二

 それから両国の広小路辺にも随分物売りがいたものだった。中で一番記憶に残っているのは細工飴《さいくあめ》
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