梵雲庵漫録
淡島寒月

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)朧《おぼ》ろげな

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)幕府|瓦解《がかい》の頃

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)どんどん[#「どんどん」に傍点]と称して
−−

 幼い頃の朧《おぼ》ろげな記憶の糸を辿《たど》って行くと、江戸の末期から明治の初年へかけて、物売や見世物の中には随分面白い異《かわ》ったものがあった。私はそれらを順序なく話して見ようと思う。

       一

 まず第一に挙げたいのは、花見時の上野に好《よ》く見掛けたホニホロである。これは唐人《とうじん》の姿をした男が、腰に張子《はりこ》で作った馬の首だけを括《くく》り付け、それに跨《またが》ったような格好で鞭《むち》で尻を叩く真似をしながら、彼方此方《あっちこっち》と駆け廻る。それを少し離れた処で柄の付いた八角形の眼鏡《めがね》の、凸レンズが七個に区画されたので覗《のぞ》くと、七人のそうした姿の男が縦横に馳《は》せ廻るように見えて、子供心にもちょっと恐ろしいような感じがしたのを覚えている。
 その頃の上野には御承知の黒門があって、そこから内へは一切物売を厳禁していたから、元の雁鍋の辺から、どんどん[#「どんどん」に傍点]と称していた三枚橋まで、物売がずっと店を出していたものだったが、その中で残っているのは菜の花の上に作り物の蝶々を飛ばせるようにした蝶々売りと、一寸か二寸四方位な小さな凧《たこ》へ、すが糸で糸目を長く付けた凧売りとだけだ。この凧はもと、木挽町《こびきちょう》の家主で兵三郎という男が拵《こし》らえ出したもので、そんな小さいものだけに、骨も竹も折れやすいところから、紙で巻くようにしていわゆる巻骨《まきぼね》ということも、その男が工夫した事だという。
 物売りではないが、紅勘《べにかん》というのはかなり有名なものだった。浅黄《あさぎ》の石持で柿色の袖なしに裁布《たっつけ》をはいて、腰に七輪のアミを提《さ》げて、それを叩いたり三味線を引いたりして、種々な音色を聞かせたが、これは芝居や所作事にまで取り入れられたほど名高いものである。

       二

 それから両国の広小路辺にも随分物売りがいたものだった。中で一番記憶に残っているのは細工飴《さいくあめ》の店で、大きな瓢箪《ひょうたん》や橋弁慶《はしべんけい》なぞを飴でこしらえて、買いに来たものは籤《くじ》を引かせて、当ったものにそれを遣《や》るというので、私などもよく買いに行ったものだが、いつも詰《つま》らない飴細工ばかり引き当てて、欲しいと思う橋弁慶なぞは、何時《いつ》も取ったことがなく落胆《らくたん》したものだった。
 物売りの部へ入れるのは妙だが、神田橋本町の願人坊主《がんにんぼうず》にも、いろいろ面白いのがいた。決してただ銭を貰《もら》うという事はなく、皆何か芸をしたものだけに、その時々には様々な異ったものが飛出したもので、丹波の荒熊だの、役者の紋当て謎解き、または袋の中からいろいろな一文《いちもん》人形を出して並べ立てて、一々言い立てをして銭を貰うのは普通だったが、中には親孝行で御座《ござ》いといって、張子の人形を息子に見立てて、胸へ縛《しば》り付け、自分が負《お》ぶさった格好をして銭を貰うもの――これは評判が好くて長続きした。半身肌脱ぎになって首から上へ真白に白粉を塗って、銭湯の柘榴口《ざくろぐち》に見立てた板に、柄のついたのを前に立て、中でお湯を使ったり、子供の人形を洗ってやったりするところを見せたものなぞがあったものである。

       三

 私の生れた馬喰町《ばくろちょう》の一丁目から四丁目までの道の両側は、夜になるといつも夜店が一杯に並んだものだった。その頃は幕府|瓦解《がかい》の頃だったから、八万騎をもって誇っていた旗本や、御家人《ごけにん》が、一時に微禄《びろく》して生活の資に困ったのが、道具なぞを持出して夜店商人になったり、従って芝居なぞも火の消えたようなので、役者の中にはこれも困って夜店を出す者がある位で、実に賑《にぎ》やかなものだったが、それらの夜店商人が使う蝋燭《ろうそく》は、主に柳橋の薩摩《さつま》蝋燭といって、今でも安いものを駄蝋《だろう》という位、酷《ひど》いものだが、それを売りに来る男で歌吉というのがあった。これがまた、天性の美音で「蝋燭で御座いかな」と踊るような身ぶりをして売って歩いたが、馬喰町の夜店が寂《さび》れると同時に、鳥羽絵《とばえ》の升落《ますおと》しの風をして、大きな拵らえ物の鼠を持って、好く往来で芸をして銭を貰っていたのを覚えている。美音で思い出したが、十軒店《じっけんだな》にも治郎公なぞと呼んでいた鮨
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
淡島 寒月 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング