屋が、これも美《い》い声で淫猥な唄ばかり歌って、好く稲荷鮨《いなりずし》を売りに来たものだった。
四
明治も十年頃になると物売りもまた変って来て、隊長の鳥売りなぞといって、金モールをつけた怪しげな大礼服を着て、一々|言立《ことだ》てをするのや、近年まであったカチカチ団子と言う小さい杵《きね》で臼《うす》を搗《つ》いて、カチカチと拍子を取るものが現われた。また、それから少し下《くだ》っては、落語家のへらへらの万橘が、一時盛んな人気だった頃に、神田台所町の井戸の傍だったかに、へらへら焼一名万橘焼というものを売り出したものがいて、これが大層好く売れたものであったそうだ。
昔のことをいえば限りがないが、物価も今より安かっただけ、いろいろ馬鹿げた事を考え出す者が多かった故か、物売りにまで随分変ったものがあった。とにかくその頃の女の髪結《かみゆい》銭が、島田でも丸髷《まるまげ》でも百文(今の一銭に当る)で、柳橋のおもと[#「おもと」に傍点]といえば女髪結の中でも一といわれた上手だったが、それですら髪結銭は二百文しか取らなかった。今から思えば殆《ほと》んど夢のような気がする。忙しく余裕のない現代に生活している若い人たちが聞いたら、そこには昼と夜ほどの懸隔《けんかく》を見出す事であろうと思われる位だった。
[#地から1字上げ](大正十二年四月『七星』第一号)
五
私の今住んでいる向島《むこうじま》一帯の土地は、昔は石が少かったそうである。それと反対に向河岸《むこうがし》の橋場から今戸《いまど》辺には、石浜という名が残っている位に石が多かった。で、江戸もずっと以前の事であろうが、石浜に住んでいる人たちは、自分の腕の力を試すという意味も含ませて、向島の方へ石を投げてよこしたという伝説がある。その代りという訳でもあるまいが、この辺の土地は今でも一間も掘り下げると、粘土が層をなしていて、それが即ち今戸焼には好適の材料となるので、つまり暗黙のうちに物々交換をする訳なのである。
この石投げということは、俳諧の季題にある印地打《いんじうち》ということなので、この風習は遠い昔に朝鮮から伝来したものらしく、今でも朝鮮では行われているそうだが、それが五月の行事となったのも、つまりは男子の節句という、勇ましいというよりもむしろ荒々しい気風にふさわしい遊戯であるからではなかろうか。既に近松門左衛門の『女殺油地獄』の中に――五月五日は女は家と昔から――という文句があるが、これも印地打のために女子供が怪我をするといけないから表へ出るなと、戒めたものであるらしい。
またそれほど烈《はげ》しければこそ、多くの怪我人も出来て、後には禁止されたのである。
六
荒々しいといえば、五月人形の内、鍾馗《しょうき》にしろ金時《きんとき》にしろ、皆勇ましく荒々しいものだが、鍾馗は玄宗皇帝の笛を盗んだ鬼を捉《とら》えた人というし、金時は今も金時山に手玉石という大きな石が残っている位強かったというが、その子の金平《きんぴら》も、きんぴら牛蒡《ごぼう》やきんぴら糊に名を残したばかりか、江戸初期の芝居や浄瑠璃には、なくてはならない大立者《おおだてもの》だ。この浄瑠璃を語り初めた和泉太夫というのは、高座へ上るには二尺余りの鉄扇を持って出て、毎晩舞台を叩きこわしたそうだが、そんな殺伐なことがまだ戦国時代の血腥《ちなまぐさ》い風の脱け切らぬ江戸ッ子の嗜好《しこう》に投じて、遂には市川流の荒事《あらごと》という独特な芸術をすら生んだのだ。
荒事といえば二代目の団十郎にこんな逸話がある。それは或る時座敷に招《よ》ばれて、その席上で荒事を所望されたので、立上って座敷の柱をゆさゆさと揺ぶり、「これが荒事でございます」といったら、一同|喝采《かっさい》して悦んだという事が或る本に書いてあった。
七
印地打が朝鮮渡来の風習だという事は前に言ったが、同じ節句の柏餅も、やはり支那かもしくは印度《インド》あたりから伝えられたものであろう。というのは、今でも印度辺りでは客に出す食物は、大抵木の葉に盛って捧げられる風習がある。つまり木の葉は清浄なものとしてあるのだが、それらのことが柏餅を生み椿餅を生み、そして編笠餅《あみがさもち》や乃至《ないし》桜餅を生んだと見ても差支えないように考える。
殊に昔、支那や朝鮮の種族が、日本へ移住した数は尠《すく》なからぬので、既に僧行基が奈良のある寺で説教を試みた時、髪に豚の脂の匂いのする女が来て聴聞《ちょうもん》したという話がある位、従ってそれらの部落で膳椀《ぜんわん》の代りに木の葉を用いたのが、伝播《でんぱ》したとも考えられぬ事はない。唯《ただ》幸いにして日本人は肉が嫌いであったがため、あの支那料
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
淡島 寒月 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング