亡び行く江戸趣味
淡島寒月
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)向島《むこうじま》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)物々|総《すべ》てに
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから1字下げ]
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江戸趣味や向島《むこうじま》沿革について話せとの御申込であるが、元来が不羈放肆《ふきほうし》な、しかも皆さんにお聞かせしようと日常研究し用意しているものでないから、どんな話に終始するか予《あらかじ》めお約束は出来ない。
◇
人はよく私を江戸趣味の人間であるようにいっているが、決して単なる江戸趣味の小天地に跼蹐《きょくせき》しているものではない。私は日常応接する森羅万象《しんらばんしょう》に親しみを感じ、これを愛玩《あいがん》しては、ただこの中にプレイしているのだと思っている。洋の東西、古今を問わず、卑しくも私の趣味性を唆《そそ》るものあらば座右に備えて悠々自適《ゆうゆうじてき》し、興来って新古の壱巻をも繙《ひもと》けば、河鹿笛《かじかぶえ》もならし、朝鮮太鼓も打つ、時にはウクレルを奏しては土人の尻振りダンスを想って原始なヂャバ土人の生活に楽しみ、時にはオクライナを吹いてはスペインの南国情緒に陶酔《とうすい》もする、またクララ・キンベル・ヤングやロンチャニーも好愛し、五月信子や筑波雪子の写真も座臥《ざが》に用意して喜べる。こういう風に私は事々物々|総《すべ》てに親愛を見出すのである。
◇
オモチヤの十徳《じゅっとく》
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一、トーイランドは自由平等の楽地|也《なり》。
一、各自互に平和なり。
一、縮小して世界を観ることを得。
一、各地の風俗を知るの便あり。
一、皆|其《そ》の知恵者より成れり。
一、沈黙にして雄弁なり。
一、朋友と面座上に接す。
一、其《そ》の物より求めらるゝの煩なし。
一、依之《これによりて》我を教育す。
一、年を忘れしむ。
皆おもちや子供のもてるものゝみを
それと思へる人もあるらむ
[#ここで字下げ終わり]
これが、私が応接する総てを愛玩出来る心で、また私の哲学である。従って玩具を損失したからとて、少しも惜いとは思わない。私は這般《しゃはん》の大震災で世界の各地から蒐集《しゅうしゅう》した再び得がたい三千有余の珍らしい玩具や、江戸の貴重な資料を全部焼失したが、別して惜しいとは思わない。虚心坦懐《きょしんたんかい》、去るものを追わず、来るものは拒まずという、未練も執着もない無碍《むがい》な境地が私の心である。それ故私の趣味は常に変遷転々《へんせんてんてん》として極まるを知らず、ただ世界に遊ぶという気持で、江戸のみに限られていない。私の若い時代は江戸趣味どころか、かえって福沢諭吉先生の開明的な思想に鞭撻《べんたつ》されて欧化に憧れ、非常な勢いで西洋を模倣し、家の柱などはドリックに削《けず》り、ベッドに寝る、バタを食べ、頭髪までも赤く縮《ちぢ》らしたいと願ったほどの心酔ぶりだった。そうはいえ私は父から受け継いだのか、多く見、多く聞き、多く楽しむという性格に恵まれて、江戸の事も比較的多く見聞きし得たのである。それもただ自らプレイする気持だけで、後世に語り伝えようと思うて研究した訳ではないが、お望みとあらばとにかく漫然であるが、見聞の一端を思い出づるままにとりとめもなくお話して見よう。
◇
古代からダークとライトとは、文明と非常に密接な関係を持つもので、文明はあかりを伴うものである。元禄時代の如きは非常に明《あかる》い気持があったがやはり江戸時代は暗かった。
◇
花火について見るも、今日に較《くら》ぶればとても幼稚なもので、今見るような華やかなものはなかった。何んの変哲も光彩もないただの火の二、三丈も飛び上るものが、花火として大騒ぎをされたのである。一体花火は暗い所によく映《は》ゆるものであるから、今日は化学が進歩して色々のものが工夫されているが、同時に囲りが明るくされているので、かえってよく環境《かんきょう》と照映しない憾《うら》みがある。
◇
昔から花火屋のある処は暗いものの例となっている位で、店の真中に一本の燈心を灯し、これを繞《めぐ》って飾られている火薬に、朱書《しゅがき》された花火という字が茫然と浮出《うきだ》している情景は、子供心に忘れられない記憶の一つで、暗いものの標語に花火屋の行燈《あんどん》というが、全くその通りである。当時は花火の種類も僅《わず》かで、大山桜とか鼠というような、ほんのシューシューと音をたてて、地上にただ落ちるだけ位のつまらない程度のもので、それでもまたミケンジャクや烏万燈等と
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