てっちょう》が、『朝日新聞』に書いた。また服部誠一翁がいろいろなものを書いた。寛《ひろし》(総生《ふそう》)は寛でさまざまなもの、例えば秘伝の類、芸妓になる心得だとか地獄を買う田地だとかいうようなものを書いて一しきりは流行《はや》ったものである。
 読物はこの頃になっては、ずっと新しくなっていて、丁髷《ちょんまげ》の人物にも洋傘やはやり合羽《がっぱ》を着せなければ、人々がかえり見ないというふうだった。二代目左団次が舞台でモヘルの着物をつけたり、洋傘をさしたりなどしたのもこの頃のことである。が、作は随分沢山出たが、傑作は殆んどなかった。その折に出たのが、坪内逍遥《つぼうちしょうよう》氏の『書生気質《しょせいかたぎ》』であった。この書物はいままでの書物とはくらべものにならぬ優れたもので、さかんに売れたものである。
 版にしないものはいろいろあったが、出たものには山田美妙斎《やまだびみょうさい》が編輯していた『都の花』があった。その他|硯友社《けんゆうしゃ》一派の『文庫』が出ていた。
 劇評では六二連《ろくにれん》の富田砂燕《とみたさえん》という人がいた。この人の前には梅素玄魚という人がいた
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