べき人が出た。『読売』では中坂まときの時分に、若菜貞爾(胡蝶園)という人が出て小説を書いたが、この人は第十二小区(いまの日本橋|馬喰町《ばくろちょう》)の書記をしていた人であった。その他、投書家でもよいものは作者と同じように、原稿料をとっていたように記憶する。(斎藤緑雨《さいとうりょくう》なども、この若菜貞爾にひきたてられて、『報知』に入ったものである。)
これらの人々によって、その当時演芸道の復活を見たことは、また忘れることの出来ない事実である。旧物に対する蔑視《べっし》と、新らしき物に対する憧憬とが、前述のように烈《はげ》しかったその当時は、役者は勿論のこと、三味線を手にしてさえも、科人《とがにん》のように人々から蔑《おと》しめられたものであった。それ故、演芸に関した事柄などは、新聞にはちょっぴりとも書かれなかった。そうした時代に、浮川福平は都々逸《どどいつ》の新作を矢継早《やつぎばや》に発表し、また仮名垣魯文の如きは、その新聞の殆《ほと》んど半頁を、大胆にも芝居の記事で埋めて、演芸を復活させようとつとめた。
そのうち、かの『雪中梅《せっちゅうばい》』の作者|末広鉄腸《すえひろ
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