。後にこの人は楽屋白粉《がくやおしろい》というものをつくって売り出すような事をしたものである。
話が前後したが、成島柳北《なるしまりゅうほく》の『柳橋新誌《りゅうきょうしんし》』の第二篇は、明治七年に出た。これは柳暗《りゅうあん》のことを書いたものである。その他に『東京新繁昌記《とうきょうしんはんじょうき》』も出た。新しい西欧文明をとり入れ出した東京の姿を書いたもので、馬車だとか煉瓦だとかが現われ出した頃のことが書かれてある。これはかの寺門静軒《てらかどせいけん》の『江戸繁昌記《えどはんじょうき》』にならって書かれたものである。
一体にこの頃のものは、話は面白かったが、読んで味《あじわ》いがなかった。
◇
明治十三、四年の頃、西鶴の古本を得てから、私は湯島に転居し、『都の花』が出ていた頃紅葉君、露伴君に私は西鶴の古本を見せた。
西鶴は俳諧師で、三十八の歳|延宝《えんぽう》八年の頃、一日に四千句詠じたことがある。貞享《じょうきょう》元年に二万三千五百句を一日一夜のうちによんだ。これは才麿という人が、一日一万句を江戸でよんだことに対抗したものであった。散文を書いたのは
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