西《フランス》などへ行くそうです。奇人連中の寄合《よりあい》ですから、その頃随分面白い遊びをやったもので、山門で茶の湯をやったり、志道軒《しどうけん》の持っていた木製の男根が伝っていたものですから、志道軒のやったように、辻講釈《つじこうしゃく》をやろうなどの議があったが、これはやらなかった。また椿岳は油絵なども描いた人で、明治初年の大ハイカラでした。それから面白いのは、父がゴム枕を持っていたのを、仮名垣魯文《かながきろぶん》さんが欲しがって、例の覗眼鏡の軍艦の下を張る反古《ほご》がなかった処、魯文さんが自分の草稿|一屑籠《ひとくずかご》持って来て、その代りに欲しがっていたゴム枕を父があげた事を覚えています。ツマリ当時の奇人連中は、京伝《きょうでん》馬琴《ばきん》の一面、下っては種彦《たねひこ》というような人の、耽奇の趣味を体得した人であったので、観音堂の傍で耳の垢取《あかと》りをやろうというので、道具などを作った話もあります。本郷玉川の水茶屋《みずぢゃや》をしていた鵜飼三二《うがいさんじ》さんなどもこの仲間で、玉川の三二さんは、活《い》きた字引といわれ、後には得能さんの顧問役のようにな
前へ 次へ
全7ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
淡島 寒月 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング