艦の上に、西郷吉之助と署名して、南洲《なんしゅう》翁が横額に「万国一覧」と書いたのです。父はああいう奇人で、儲《もう》ける考えもなかったのですが、この興行が当時の事ですから、大評判で三千円という利益があった。
当時奥山の住人というと奇人ばかりで、今立派な共同便所のある処|辺《あたり》に、伊井蓉峰《いいようほう》のお父さんの、例のヘベライといった北庭筑波《きたにわつくば》がいました。ヘベライというのは、ヘンホーライを通り越したというのでヘベライと自ら号し、人はヘベさん/\といってました。それから水族館の辺に下岡蓮杖さん、その先に鏑木雪庵《かぶらぎせつあん》、広瀬さんに椿岳なんかがいました。古い池の辺は藪《やぶ》で、狐や狸が住んでいた位で、その藪を開いて例の「万国一覧」の覗眼鏡の興行があったのです。今の五区の処は田圃でしたから今の池を掘って、その土で今の第五区が出来たというわけで、これはその辺の百姓でした大橋門蔵という人がやったのです。
その後椿岳は観音の本堂傍の淡島堂に移って、いわゆる浅草画十二枚を一揃《ひとそろい》として描いて、十銭で売ったものです。近頃では北斎以後の画家として仏蘭西《フランス》などへ行くそうです。奇人連中の寄合《よりあい》ですから、その頃随分面白い遊びをやったもので、山門で茶の湯をやったり、志道軒《しどうけん》の持っていた木製の男根が伝っていたものですから、志道軒のやったように、辻講釈《つじこうしゃく》をやろうなどの議があったが、これはやらなかった。また椿岳は油絵なども描いた人で、明治初年の大ハイカラでした。それから面白いのは、父がゴム枕を持っていたのを、仮名垣魯文《かながきろぶん》さんが欲しがって、例の覗眼鏡の軍艦の下を張る反古《ほご》がなかった処、魯文さんが自分の草稿|一屑籠《ひとくずかご》持って来て、その代りに欲しがっていたゴム枕を父があげた事を覚えています。ツマリ当時の奇人連中は、京伝《きょうでん》馬琴《ばきん》の一面、下っては種彦《たねひこ》というような人の、耽奇の趣味を体得した人であったので、観音堂の傍で耳の垢取《あかと》りをやろうというので、道具などを作った話もあります。本郷玉川の水茶屋《みずぢゃや》をしていた鵜飼三二《うがいさんじ》さんなどもこの仲間で、玉川の三二さんは、活《い》きた字引といわれ、後には得能さんの顧問役のようにな
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