は面継《めんつぎ》の模様であったのを覚えています位、僕が面好きであったと共に、玩具屋にも種々あったものです。清水晴風さんの『うなゐのとも』という玩具の事を書いた書の中にも、ベタン人形として挙げてあるのはこれで、肥後熊本日奈久で作られます。僕は上方風《かみがたふう》にベッタ人形といっているが、ベタン人形と同じものですよ。それからこの間|仲見世《なかみせ》で、長方形の木箱の蓋《ふた》が、半ば引開になって、蓋の上には鼠がいて、開けると猫が追っかけて来るようになっトいる玩具を売ってますのを見たが、これは僕の子供の時分に随分|流行《はや》って、その後|廃《す》たれていたのが、この頃またまた復活して来たのですな。今は到底売れないが昔|亀戸《かめいど》の「ツルシ」といって、今|張子《はりこ》の亀の子や兵隊さんがありますが、あの種類《たぐい》で、裸体の男が前を出して、その先《さ》きへ石を附けて、張子の虎の首の動くようなのや、おかめが松茸《まつたけ》を背負っているという猥褻《わいせつ》なのがありましたっけ。こんな子供の玩具にも、時節の変遷が映《うつ》っているのですからな。僕の子供の頃の浅草の奥山の有様を考えると、暫《しばら》くの間に変ったものです。奥山は僕の父|椿岳《ちんがく》さんが開いたのですが、こんな事がありましたっけ。確かチャリネ[#「チャリネ」に傍点]の前かスリエ[#「スリエ」に傍点]という曲馬が――明治五年でしたか――興行された時に、何でもジョーワニという大砲を担《かつ》いで、空砲を打つという曲芸がありまして、その時|空鉄砲《からでっぽう》の音に驚かされて、奥山の鳩が一羽もいなくなった事がありました。奥山見世物の開山は椿岳で、明治四、五年の頃、伝法院《でんぼういん》の庭で、土州《どしゅう》山内容堂《やまのうちようどう》公の持っていられた眼鏡《めがね》で、普仏戦争の五十枚続きの油画を覗《のぞ》かしたのでした。看板は油絵で椿岳が描いたのでして、確かその内三枚ばかり、今でも下岡蓮杖《しもおかれんじょう》さんが持っています。その覗眼鏡《のぞきめがね》の中でナポレオン三世が、ローマのバチカンに行く行列があったのを覚えています。その外廓《がいかく》は、こう軍艦の形にして、船の側の穴の処に眼鏡を填《は》めたので、容堂公のを模して足らないのを駒形の眼鏡屋が磨《す》りました。而《しか》して軍
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