いせつ》な歌を、何ともいえぬ好い喉で歌うのですが、歌は猥褻な露骨なもので、例を出すことも出来ないほどです。鮨売《すしうり》の粋な売声では、例の江※[#「魚+祭」、第4水準2−93−73]《こはだ》の鮨売などは、生粋《きっすい》の江戸前でしたろう。この系統を引いてるものですが、治郎公のは声が好いというだけです。この治郎公の息子か何かが、この間まで本石町《ほんこくちょう》の人形屋光月の傍に鮨屋を出していましたっけ。市区改正後はどうなりましたか。
 この時分、町を歩いて見てやたらに眼に付いて、商売家になければならぬように思われたのは、三泣車《さんなきぐるま》というのです。小僧が泣き、車力が泣き、車が泣くというので、三泣車といったので、車輪は極く小《ちいさ》くして、轅《ながえ》を両腋《りょうわき》の辺《あたり》に持って、押して行く車で、今でも田舎の呉服屋などで見受ける押車です。この車が大いに流行ったもので、三泣車がないと商家の体面にかかわるという位なのでした。それから明治三、四年までは、夏氷などいうものは滅多《めった》に飲まれない、町では「ひやっこい/\」といって、水を売ったものです。水道の水は生温《なまぬる》いというので、掘井戸の水を売ったので、荷の前には、白玉と三盆《さんぼん》白砂糖とを出してある。今の氷屋のような荷です。それはズット昔からある水売りで、売子は白地の浴衣、水玉の藍模様《あいもよう》かなんかで、十字の襷掛《たすきが》け、荷の軒には風鈴が吊ってあって、チリン/\の間に「ひやっこい/\」という威勢の好いのです。砂糖のが文久《ぶんきゅう》一枚、白玉が二枚という価でした。まだ浅草橋には見附《みつけ》があって、人の立止るを許さない。ちょっとでも止ると「通れ」と怒鳴った頃で、その見附のズット手前に、治郎公(鮨やの治郎公ではない)という水売が名高かった。これは「ひやっこい/\」の水売で、処々にあった水茶屋《みずぢゃや》というのは別なもの、今の待合《まちあい》です。また貸席を兼ねたものです。当時水茶屋で名高かったのは、薬研堀《やげんぼり》の初鷹、仲通りの寒菊、両国では森本、馬喰町四丁目の松本、まだ沢山ありましたが、多くは廃業しましたね。
 この江戸と東京との過渡期の繁華は、前言ったように、両国が中心で、生馬《いきうま》の眼をも抜くといった面影は、今の東京よりは、当時の両国に見られました。両国でも本家の四ツ目屋のあった加賀屋横町や虎横町――薬種《やくしゅ》屋の虎屋の横町の俗称――今の有名な泥鰌《どじょう》屋の横町辺が中心です。西両国、今の公園地の前の大川縁《おおかわべり》に、水茶屋が七軒ばかりもあった。この地尻に、長左衛門という寄席がありましたっけ。有名な羽衣《はごろも》せんべいも、加賀屋横町にあったので、この辺はゴッタ返しのてんやわんや[#「てんやわんや」に傍点]の騒《さわぎ》でした。東両国では、あわ雪、西で五色茶漬は名代《なだい》でした。朝は青物の朝市がある。午《ひる》からは各種の露店が出る、銀流《ぎんなが》し、矢場《やば》、賭博《とばく》がある、大道講釈やまめ蔵が出る――という有様で、その上狭い処に溢《あふ》れかかった小便桶が並んであるなど、乱暴なものだ。また並び床といって、三十軒も床屋があって、鬢盥《びんだらい》を控えてやっているのは、江戸絵にある通りです。この辺の、のでん賭博というのは、数人寄って賽《さい》を転がしている鼻《はな》ッ張《ぱり》が、田舎者を釣りよせては巻き上げるのですが、賭博場の景物には、皆春画を並べてある。田舎者が春画を見てては釣られるのです。この辺では屋台店がまた盛んで、卯之花鮨《からずし》とか、おでんとか、何でも八文で後には百文になったです。この両国の雑踏の間に、下駄脱しや、羽織脱しがあった。踵《かかと》をちょっと突くものですから、足を上げて見ている間に、下駄をカッ払ったりする奴があった。それから露店のイカサマ道具屋の罪の深いやり方のには、こういうのがある。これはちょっと淋《さび》しい人通りのまばらな、深川の御船蔵前とか、浅草の本願寺の地内とかいう所へ、小さい菰座《こもざ》を拡げて、珊瑚珠《さんごじゅ》、銀簪《ぎんかん》、銀煙管《ぎんギセル》なんかを、一つ二つずつ置いて、羊羹《ようかん》色した紋付《もんつき》を羽織って、ちょっと容体《ようだい》ぶったのがチョコンと坐っている。女や田舎ものらが通りかかると、先に男がいくばくかに値をつけて、わざと立去ってしまうと、後で紋付のが「時が時ならこんな珠を二円や三円で売るのじゃないにアア/\」とか何とか述懐して、溜呼吸《ためいき》をついている。女客は立止って珠を見て、幾分かで買うニ、イカサマ師はそのまま一つ処にはいない、という風に、維新の際の武家高家の零落流行に連れて
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