、零落者と見せかけてのイカモノ師が多かったなどは、他の時代には見られぬ詐偽《さぎ》商人です。また「アラボシ」といって、新らしいものばかりの露店がある。これは性《しょう》が悪くて、客が立止って一度価を聞こうものなら、金輪際《こんりんざい》素通りの聞放しをさせない、袂《たもと》を握って客が値をつけるまで離さない。買うつもりで価を聞いたのだろうから、いくばくか値を附けろ、といったような剣幕で、二円も三円もとの云価《いいね》を二十銭三十銭にも附けられないという処を見込んだ悪商人が多く「アラボシ」にあった。今夜店の植木屋などの、法外な事をいうのは、これらアラボシ商人の余風なのでしょう。一体がこういう風に、江戸の人は田舎者を馬鹿に為切《しき》っていた。江戸ッ子でないものは人でないような扱いをしていたのは、一方からいうと、江戸が東京となって、地方人に蹂躙《じゅうりん》せられた、本来江戸児とは比較にもならない頓馬《とんま》な地方人などに、江戸を奪われたという敵愾心《てきがいしん》が、江戸ッ子の考えに瞑々《めいめい》の中《うち》にあったので、地方人を敵視するような気風もあったようだ。
 散髪《ざんぱつ》になり立てなども面白かった。若い者は珍らしい一方で、散髪になりたくても、老人などの思惑を兼ねて、散髪の鬘《かつら》を髷《まげ》の上に冠ったのなどがありますし、当時の床屋の表には、切った髷を幾《いく》つも吊してあったのは奇観だった。
 また一時七夕の飾物の笹が大流行で、その笹に大きいものを結び付けることが流行り、吹流しだとか、一間もあろうかと思う張子《はりこ》の筆や、畳一畳敷ほどの西瓜の作《つくり》ものなどを附け、竹では撓《たわ》まって保てなくなると、屋の棟《むね》に飾ったなどの、法外に大きなのがあった。また凧《たこ》の大きなのが流行り、十三枚十五枚などがある。揚《あ》げるのは浅草とか、夜鷹《よたか》の出た大根河岸《だいこがし》などでした。秩父屋《ちちぶや》というのが凧の大問屋で、後に観音の市十七、八の両日は、大凧を屋の棟に飾った。この秩父屋が初めて形物の凧を作って、西洋に輸出したのです。この店は馬喰町四丁目でしたが、後には小伝馬町《こでんまちょう》へ引移《ひきうつ》して、飾提灯《かざりちょうちん》即ち盆提灯や鬼灯提燈《ほおずきちょうちん》を造った。秩父屋と共に、凧の大問屋は厩橋《うまやばし》の、これもやはり馬喰町三丁目にいた能登屋で、この店は凧の唸《うな》りから考えた凧が流行らなくなると、鯨屋になって、今でも鯨屋をしています。
 それから東京市の街燈を請負《うけお》って、初めて設けたのは、例の吉原の金瓶大黒の松本でした。燈はランプで、底の方の拡がった葉鉄《ぶりき》の四角なのでした。また今パールとか何とかいって、白粉《おしろい》下のような美顔水《びがんすい》というような化粧の水が沢山ありますが、昔では例の式亭三馬《しきていさんば》が作った「江戸の水」があるばかりなのが、明治になって早くこの種のものを売出したのが「小町水」で、それからこれはずっと後の話ですが、小川町の翁屋という薬種屋の主人で安川という人があって、硯友社《けんゆうしゃ》の紅葉さんなんかと友人で、硯友社連中の文士芝居《ぶんししばい》に、ドロドロの火薬係をやった人でして、その化粧水をポマドンヌールと命《なづ》けていた。どういう意味か珍な名のものだ。とにかく売れたものでしたね。この翁屋の主人は、紅葉さんなんかと友人で、文墨《ぶんぼく》の交《まじわり》がある位で、ちょっと変った面白い人で、第三回の博覧会の時でしたかに、会場内の厠《かわや》の下掃除を引受けて、御手前の防臭剤かなんかを撒《ま》かしていましたが、終には防臭剤を博覧会へ出かけちゃ、自分で撒いていたので可笑《おか》しかった。その人も故人になったそうですが、若くって惜しいことでしたね。
[#地から1字上げ](明治四十二年八月『趣味』第四巻第八号)



底本:「梵雲庵雑話」岩波文庫、岩波書店
   1999(平成11)年8月18日第1刷発行
※「十ケ月」の「ケ」を小書きしない扱いは、底本通りにしました。
入力:小林繁雄
校正:門田裕志
2003年2月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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