戸札を叩いて「ヤレ突けそれ突け八文じゃあ安いものじゃ」と怒鳴っている。八文払って入って見ると、看板の裲襠《しかけ》を着けている女が腰をかけている、その傍《かたわら》には三尺ばかりの竹の棒の先《さ》きが桃色の絹で包んであるのがある。「ヤレ突けそれ突け」というのは、その棒で突けというのです。乱暴なものだ。また最も流行ったのは油壺に胡麻油か何かを入れて、中に大判小判を沈ましてあって、いくばくか金を出して塗箸《ぬりばし》で大判小判を取上げるので、取上げる事が出来れば、大判小判が貰《もら》えるという興行物がありました。また戊辰《ぼしん》戦争の後には、世の中が惨忍な事を好んだから、仕掛物《しかけもの》と称した怪談見世物が大流行で、小屋の内へ入ると薄暗くしてあって、人が俯向《うつむ》いてる。見物が前を通ると仕掛けで首を上げる、怨《うら》めしそうな顔をして、片手には短刀を以《も》って咽喉《のど》を突いてる、血がポタポタ滴《た》れそうな仕掛になっている。この種のものは色々の際物《きわもの》――当時の出来事などが仕組まれてありました。が、私の記憶しているのでは、何でも心中ものが多かった。こんなのを薄暗い処を通って段々見て行くと、最後に人形が引抜《ひきぬ》きになって、人間が人形の胴の内に入って目出たく踊って終《はね》になるというのが多かったようです。この怪談仕掛物の劇《はげ》しいのになると真の闇《やみ》の内からヌーと手が出て、見物の袖を掴《つか》んだり、蛇が下りて来て首筋へ触ったりします。こんなのを通り抜けて出ることが出来れば、反物《たんもの》を景物《けいぶつ》に出すなどが大いに流行ったもので、怪談師の眼吉などいうのが最も名高かった。戦争の後ですから惨忍な殺伐なものが流行り、人に喜ばれたので、芳年《よしとし》の絵に漆《うるし》や膠《にかわ》で血の色を出して、見るからネバネバしているような血だらけのがある。この芳年の絵などが、当時の社会状態の表徴でした。
 見世物はそれ位にして、今から考えると馬鹿々々しいようなのは、郵便ということが初めて出来た時は、官憲の仕事ではあり、官吏の権威の重々《おもおも》しかった時の事ですから、配達夫が一葉の端書《はがき》を持って「何の某《なにがし》とはその方どもの事か――」といったような体裁でしたよ。まだ江戸の町々には、木戸が残ってあった頃で、この時分までは木戸
前へ 次へ
全8ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
淡島 寒月 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング