華といったら、大したもので、弁天の開帳の時などは、万燈《まんとう》が夥《おびただ》しく出て、朝詣《あさまいり》の有様ったらありませんでしたよ。松本喜三郎の西国三十三番観音の御利益《ごりやく》を人形にして、浅草で見世物にしたのなど流行った。何時《いつ》だったか忘れたが、両国の川の中で、水神祭というのがあった。これには、の[#「の」に傍点]組仕事師中の泳ぎの名人の思付《おもいつ》きで、六間ばかりの油紙で張った蛇体の中に火を燈《とも》し、蛇身の所々に棒が付いてあるのを持って立泳ぎをやる。見物がいくばくとも数知れず出たのでしたか轣Aちょっと見られぬ有様でして、終《しま》いには柳橋の芸者が、乙姫《おとひめ》になってこの水神祭に出るという騒ぎでした。確か言問団子《ことといだんご》が隅田川で燈籠流《とうろうなが》しをした後で、その趣向の変形したもののようでした。当時の両国は、江戸|錦絵《にしきえ》などに残っているように大したもので、当時今の両国公園になっている辺は西両国といって、ここに村右衛門という役者が芝居をしていた。私の思うのには、村右衛門が河原物《かわらもの》といわれた役者の階級打破に先鞭《せんべん》を附けたものです。というのは、この村右衛門は初め歌舞伎役者でしたのが、一方からいえば堕落して、小屋ものとなって西両国の小屋掛《こやがけ》で芝居をしていた。一方では真実の役者がそれぞれ立派に三座に拠《よ》っていたが、西両国という眼抜きの地に村右衛門が立籠《たてこも》ったので素破《すば》らしい大入《おおいり》です。これがその後一座を率いて、人形町の横にあった中島座となりまた東両国の阪東三八の小屋、今の明治座の前身の千歳座のなお前身である喜昇座の根底を為《な》したので、まず第一歌舞伎役者と小屋ものとの彼らの仲間内の階級を打ち破ったのが、この阪東(後改め)大村村右衛門でした。その外の見世物では、東両国の橋袂《はしだもと》には「蛇使[#「蛇使」に傍点]」か「ヤレ突けそれ突け[#「ヤレ突けそれ突け」に傍点]」があった。「蛇使」というのは蛇を首へ巻いたり、腕へ巻いたりするのです。「ヤレ突けそれ突け」というのは、――この時代の事ですから、今から考えると随分思い切った乱暴な猥雑《わいざつ》なものですが――小屋の表には後姿の女が裲襠《しかけ》を着て、背を見せている。木戸番《きどばん》は声を限りに木
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