異った味いがあった。チャプリンはさすがに米国一流の思い切った演出法であるから、それが現代人の趣味に適《かな》ってあれだけの名声を博したのであろう。
それで近頃では数十巻連続ものなどが頗る流行しているが、これは新聞小説の続きもののように、後をひかせるやり方で面白いかも知れないが、やはり一回で最後まで見てしまう方がかえって興味があるように思われる。数十巻連続物などになると、自《おの》ずと筋の上にも場面の上にも同じようなものが出来て、その結局はどれもこれも芽出《めで》たし/\の大団円に終るようで、かえって興味がないようである。そこへ行くと、伊太利周遊だとか、東|印度《インド》のスマトラを実写したものだとかいう写真は、一般にはどうか知らないが、真の活動通はいつも喜ぶものである。
よく端役《はやく》という事をいうが、活動写真には端役というべきものはないように思われる。どれもこれも総《すべ》てが何らかの意味で働いているように思われる。それから室の装飾の如き物は総てその場に出ているものに調和したものが、即ち趣味を以《も》って置かれている。決してお義理一遍になげやりにただ舞台を飾るというだけに置かれてあるような事はない。総てにおいてその時代やその人物やその他に調和するよう誠実に舞台が造られているのである。この点においては正直にいえば西洋物だとても、どれもこれもいいとはいえないが、しかし日本物に較べたら、さすがに一進歩を示している。日本物もこういう舞台装置の点についても一考をわずらわしたいものである。しかしこういう事は、趣味性の発達|如何《いかん》に依《よ》ることであるから、茲《ここ》暫《しばら》くは西洋物のようになる事はむずかしいであろう。
近頃フィルムに現われる諸俳優について、一々《いちいち》の批評をして見た所で、その俳優に対する好き好きがあろうから無駄な事だが、私は過日帝国館で上場された改題「空蝉《うつせみ》」の女主人公に扮したクララ・キンベル・ヤング嬢などは、その技芸において頗る秀《ひい》でたものであると信じている。もっとも私は同嬢の技芸以外この「空蝉」全篇のプロットにも非常に感興を持って見たし、共鳴もしたのであった。そもそもこの「空蝉」というのは、原名をウイザウト・エ・ソールといい、精神的に滅んで物質的に生きたというのが主眼で、この点に私が感興を持ち共鳴を持って見たの
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
淡島 寒月 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング