みて微笑《ほほえ》んだが、終《つい》に父にはその意が分らずにしまったというような話もあります。その頃高崎の大河内子と共に、東海道の旅をした事があって、途中荒れに逢って浜名で橋が半ば流れてしまった。その毀《こわ》れた橋の上で坐禅を組んだので、大河内子が止めたそうでした。それから南禅寺に行った時にも、山門の上で子《し》にすすめられて坐禅をしたという話でした。ところがこれほど凝った禅も、浅草の淡島堂にいた時分には、天台宗になって、僧籍に身を置くようになりました。しかしてその時「本然」という名を貰ったのでした。父はその名を嫌って余り名乗らなかったのでしたが、印形《いんぎょう》がありました。これは明治十年頃の事でした。その後今の向島《むこうじま》の梵雲庵《ぼんうんあん》へ移って「隻手高声」という額を掲げて、また坐禅|三昧《ざんまい》に日を送っていたのでした。けれども真実の禅ではなく、野狐禅《やこぜん》でもありましたろうか。しかし父の雅《みやび》の上には総《すべ》て禅味が加わっていた事は確かでした。
 私も父の子故、知らず識《し》らず禅や達磨を見聞していましたが、自分はハイカラの方だったので基督《
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