に捨てられる男は意気地なしだとの、今では、人の噂も理会《わか》りますが、その時の僕は左《さ》まで世にすれ[#「すれ」に傍点]ていなかったのです。ただ夢中です、身も世もあられぬ悲嘆《かなし》さを堪え忍びながら如何《いか》にもして前《もと》の通りに為《し》たいと、恥も外聞もかまわず、出来るだけのことをしたものです。」
「それで駄目なんですか。」
「無論です。」
「まア、」とお正《しょう》は眼に涙を一ぱい含ませている。
「僕が夢中になるだけ、先方《むこう》は益々《ますます》冷て了《しま》う。終《しま》いには僕を見るもイヤだという風になったのです。」そして大友は種々と詳細《こまか》い談話《はなし》をして、自分がどれほどその女から侮辱せられたかを語った。そして彼自身も今更想い起して感慨に堪えぬ様《さま》であった。
「さぞ憎らしかッたでしょうねエ、」
「否《いいえ》、憎らしいとその時思うことが出来るなら左《さ》まで苦しくは無いのです。ただ悲嘆《かなし》かったのです。」
 お正《しょう》の両頬には何時《いつ》しか涙が静かに流れている。
「今は如何なに思っておいでです」とお正《しょう》は声をふるわして聞いた。
「今ですか、今でも憎いとは思っていません。けれどもね、お正《しょう》さん僕が若し彼様《あん》な不幸に会わなかったら、今の僕では無かったろうと思うと、残念で堪らないのです。今日が日まで三年ばかりで大事の月日が、殆《ほとん》ど煙のように過《た》って了いました。僕の心は壊れて了ったのですからねエ」と大友は眼を瞬たいた。お正《しょう》ははんけち[#「はんけち」に傍点]を眼にあてて頭《かしら》を垂れて了った。
「まア可《い》いサ、酒でも飲みましょう」と大友は酌《しゃく》を促がして、黙って飲んでいると、隣室に居《お》る川村という富豪《かねもち》の子息《むすこ》が、酔った勢いで、散歩に出かけようと誘うので、大友はお正《しょう》を連れ、川村は女中三人ばかりを引率して宿を出た。川村の組は勝手にふざけ[#「ふざけ」に傍点]散らして先へ行く、大友とお正《しょう》は相並んで静かに歩む、夜《よ》は冷々として既に膚寒く覚ゆる程の季節ゆえ、渓流《たにがわ》に沿う町はひっそり[#「ひっそり」に傍点]として客らしき者の影さえ見えず、月は冴えに冴えて岩に激する流れは雪のようである。
 大友とお正《しょう》は何時《いつし》か寄添うて歩みながらも言葉一ツ交さないでいたが、川村の連中が遠く離れて森の彼方で声がする頃になると、
「真実《ほんと》に貴下《あなた》はお可哀そうですねエ」と、突然お正《しょう》は頭《かしら》を垂れたまま言った。
「お正《しょう》さん、お正さん?」
「ハイ」とお正《しょう》は顔を上げた。雙眼《そうがん》涙を含める蒼ざめた顔を月はまともに照らす。
「僕はね、若し彼女《あのおんな》がお正《しょう》さんのように柔和《やさし》い人であったら、こんな不幸な男にはならなかったと思います。」
「そんな事は、」とお正はうつむいた、そして二人は人家から離れた、礫《いし》の多い凸凹道を、静かに歩んでいる。
「否《いいえ》、僕は真実《ほんと》に左様《そう》思います、何故《なぜ》彼女がお正《しょう》さんと同じ人で無かったかと思います。」
 お正《しょう》は、そっと大友の顔を見上げた。大友は月影に霞む流れの末を見つめていた。
 それから二人は暫時《しばら》く無言で歩いていると先へ行った川村の連中が、がやがやと騒ぎながら帰って来たので、一緒に連れ立って宿に帰った。其後三四日大友は滞留していたけれどお正《しょう》には最早、彼《あ》の事に就いては一言も言わず、お給仕ごとに楽しく四方山の話をして、大友は帰京したのである。
 爾来《じらい》、四年、大友の恋の傷は癒え、恋人の姿は彼の心から消え去せて了ったけれども、お正《しょう》には如何《どう》かして今一度、縁あらば会いたいものだと願っていたのである。
 そして来て見ると、兼ねて期したる事とは言え、さてお正《しょう》は既にいないので、大いに失望した上に、お正《しょう》の身の上の不幸を箱根細工の店で聞かされたので、不快に堪えず、流れを泝《さかのぼ》って渓《たに》の奥まで一人で散歩して見たが少しも面白くない、気は塞《ふさ》ぐ一方であるから、宿に帰って、少し夕飯には時刻が早いが、酒を命じた。

     三

 大友は、「用があるなら呼ぶから。」と女中をしりぞけて独酌で種々の事を考えながら淋しく飲んでいると宿の娘が「これをお客様が」と差出したのは封紙《うわづつみ》のない手紙である、大友は不審に思い、開き見ると、
[#改行ごとに二字下げ]前略我等両人当所に於て君を待つこと久しとは申兼候え共、本日御投宿と聞いて愉快に堪えず、女中に命じて膳部を弊室《へいしつ》に御運搬の上、大いに語り度く願い候[#二字下げ終わり]
神  崎  

朝  田  
   大  友 様
 
とあるので、驚いた。何時ごろから来ているのだと聞くと、娘は一週間ばかり前からという。直ぐ次の返事を書いて持たしてやった。
[#改行ごとに二字下げ]お手紙を見て驚喜《きょうき》仕候、両君の室《へや》は隣室の客を驚かす恐れあり、小生の室は御覧の如く独立の離島に候間、徹宵《てっしょう》快談するもさまたげず、是非|此方《このほう》へ御出向き下され度く待《ま》ち上候[#二字下げ終わり]
 すると二人がやって来た。
「君は何処を遍歴《へめぐ》って此処《ここ》へ来た?」と朝田が座に着くや着かぬに聞く、
「イヤ、何処も遍歴らない、東京から直きに来た。」
「そこでこの夏は?」
「東京に居た。」
「何をして?」
「遊んで。」
「そいつは下らなかったな」
「全くサ、そして君等は如何《どう》だ。」
「伊豆の温泉めぐりを為《し》た。」
「面白ろい事が有ったか。」
「随分有った。然し同伴者《つれ》が同伴者だからね。」と神崎の方を向く。神崎はただ「フフン」と笑ったばかり、盃をあげて、ちょっと中の模様を見て、ぐびり飲んだ。朝田もお構いなく、
「現に今日も、斯《こ》うだ、僕が縁とは何ぞやとの問に何と答えたものだろうと聞くと、先生、この円と心得て」と畳の上に指先で○《まる》を書き、
「円の定義を平気な顔で暗誦したものだ、君、斯《こ》ういう先生と約一ヶ月半も僕は膳を並べて酒を呑んだのだから堪らない。」
「それはお互いサ」と神崎少しも驚かない。
「然し相かわらず議論は激しかったろう」と大友はにこにこして問うた。
「やったとも」と朝田、
「朝田の愚論は僕も少々聞き飽きた」と神崎の一言に朝田は「フフン」と笑ったばかり。これだから二人が喧嘩を為《し》ないで一ヶ月以上も旅行が出来たのだと大友は思った。
 三人とも愉快に談じ酒も相当に利いて十一時に及ぶと、朝田、神崎は自室に引上げた、大友は頭を冷す積りで外に出た。月は中天に昇っている。恰度前年お正《しょう》と共に散歩した晩と同じである。然し前年の場所へ行くは却って思出の種と避けて渓《たに》の上へのぼりながら、途々「縁」に就《つい》て朝田が説いた処を考えた、「縁」は実に「哀」であると沁み沁み感じた。
 そして構造《かまえ》の大きな農家らしき家の前に来ると、庭先で「左様なら」と挨拶して此方《こちら》へ来る女がある、その声が如何《いか》にもお正《しょう》に似ているように思われ、つい立ちどまって居《お》ると、往来へ出て月の光を正面《まとも》に向《う》けた顔は確かにお正《しょう》である。
「お正《しょう》さん」大友は思わず叫んだ。
「大友さんでしょう、」と意外にもお正《しょう》は平気で傍へ来たので、
「貴女は僕が来て居るのを知っていたのですか」と驚いて問うた。
「も少し上の方へのぼりながらお話しましょうか。」とお正は小声にて言う。
「貴女さえかまわなければ。」
「私はちっとも、かまいませんの。」
 それではと前年の如く寄添うて、渓《たに》をのぼる。
「真実《ほんと》に妙な御縁なのですよ、私は今日、身の上に就《つい》て兄に相談があるので、突然《だしぬけ》に参りますと、妹が小声で大友さんが来宿《みえ》てるというのでしょう、……」
「それじゃア貴女は僕より一汽車後で来たのだ。」
「そうなの。それで今夜はごたごたして居るから明日お目にかかる積りでいましたの。」
 さて大友はお正《しょう》に会ったけれど、そして忘れ得ぬ前年の夜《よ》と全然《まった》く同じな景色に包まれて同じように寄添うて歩きながらも、別に言うべき事がない。却ってお正は種々の事を話しかける。
「貴下いつかの晩も此様《こんな》でしたね。」
「貴下|彼晩《あのばん》のことを憶えていらっして?」
「憶えていますとも。」
「私はね、何もかも全然《すっかり》憶えていて、貴下の被仰《おっしゃ》った事も皆な覚えていますの。」
「僕もそうです。そして今一度貴女に会いたいとばかり思っていました。今度も実はその積りで来たのです。無論|何家《どっか》へ嫁《かたず》いていて会える筈は無かろうとは思いましたが、それでも若しかと思いましてね……」
「私も今一度で可《い》いから是非お目にかかりたいと思いつづけては、彼晩《あのばん》の事を思い出して何度泣いたか知れません、……ほんとにお嫁になど行かないで兄さんや姉さんを手伝った方が如何《どん》なに可《よ》かったか今では真実《ほんと》に後悔していますのよ。」
 大友は初めてお正が自分を恋していたのを知った、そして自分がお正に会いたいと思うのと、お正が自分に会いたいと願うのとは意味が違うと感じた。自分はお正の恋人であるがお正は自分の恋人でない、ただ自分の恋に深い同情を寄せて泣いてくれた柔しサを恋したのだ。そして自分は恋を恋する人に過ぎないと知った。実に大友はお正の恋を知ると同時に自分のお正に対する情の意味を初めて自覚したのである。
 暫時無言で二人は歩いていたが、大友は斯《か》く感じると、言い難き哀情《かなしみ》が胸を衝いて来る。
「然しね、お正さん、貴女も一旦嫁いだからには惑わないで一生を送った方が可《よろ》しいと僕は思います。凡《すべ》て女の惑いからいろんな混雑や悲嘆《なげき》が出て来るものです。現に僕の事でも彼女《あのおんな》が惑うたからでしょう……」
 お正はうつ向いたまま無言。
「それで今夜は運よくお互に会うことが出来ましたが、最早《もう》二度とは会えませんから言います、貴女も身体も大切にして幾久しく無事でお暮しになるように……」
 お正は袖を眼に当て、
「何故会えないのでしょうか。」
「会えないものと思った方が可《い》いだろうと思います。」
「それでは貴下は最早会いたいとは思っては下さらないのですか。」
「決して其様《そんな》ことはありません。僕はこれまで彼女《あのおんな》に会いたいなど夢にも思わなくなりましたが、貴女には会いたいと思っていましたから……」
「それではお目にかかる事が出来る縁を待ちましょうね。」
「ほんとうに、そうです。貴女も今言ったように、くよくよ為《し》ないで、身体を大事にお暮しなさい。」
「難有《ありがと》う御座います。」
 夜の更くるを恐れて二人は後へ返し、渓流《たにがわ》に渡せる小橋の袂まで帰って来ると、橋の向うから男女《なんにょ》の連れが来る。そして橋の中程ですれちがった。男は三十五六の若紳士、女は庇髪《ひさしがみ》の二十二三としか見えざる若づくり、大友は一目見て非常に驚いた。
 足早に橋を渡って、
「お正さんお正さん。彼《あ》れです。彼《あ》の女です!」
「まア、彼の人ですか!」とお正も吃驚《びっくり》して見送る。
「如何《どう》して又、こんな処で会ったろう。彼女《あれ》も必定《きっと》僕と気が着《つ》いたに違いない。お正さん僕は明日朝|出発《たち》ますよ。」
「まア如何《どう》して?」
「若し彼女《あれ》が大東館にでも宿泊っていたら、僕と白昼|出会《でっく》わすかも知れない、僕は見るのも嫌です。往来で会うかも知れません如斯《こん》な狭い所ですから。」
「会っても知らん顔して
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国木田 独歩 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング