恋を恋する人
国木田独歩

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)秋の初《はじめ》の空は

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)朝田|様《さん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)つかまえ[#「つかまえ」に傍点]て
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     一

 秋の初《はじめ》の空は一片の雲もなく晴《はれ》て、佳《い》い景色《けしき》である。青年《わかもの》二人は日光の直射を松の大木の蔭によけて、山芝の上に寝転んで、一人は遠く相模灘を眺め、一人は読書している。場所は伊豆と相模の国境にある某《なにがし》温泉である。
 渓流《たにがわ》の音が遠く聞ゆるけれど、二人の耳には入らない。甲《ひとり》の心は書中《しょちゅう》に奪われ、乙《ひとり》は何事か深く思考《おもい》に沈んでいる。
 暫時《しばらく》すると、甲《ひとり》は書籍《ほん》を草の上に投げ出して、伸《のび》をして、大欠《おおあくび》をして、
「最早《もう》宿へ帰ろうか。」
「うん」と応《こたえ》たぎり、乙《ひとり》は見向きもしない。すると甲《ひとり》は巻煙草を出して、
「オイ君、燐寸を借せ。」
「うん」と出してやる、そして自分も煙草を出して、甲乙《ふたり》共《とも》、のどかに喫煙《す》いだした。
「君はどう思う、縁とは何ぞやと言われたら?」
 と思考《おもい》に沈んでいた乙《ひとり》が静かに問うた。
「左様《そう》サね、僕は忘れて了った。……何とか言ったッけ。」と甲《ひとり》は書籍《ほん》を拾い上げて、何気《なにげ》なく答える。
 乙《ひとり》は其《それ》を横目で見て、
「まさか水力電気論の中《うち》には説明してあるまいよ。」
「無いとも限らん。」
「あるなら、その内捜して置いてくれ給え。」
「よろしい。」
 甲乙《ふたり》は無言で煙草を喫っている。甲《ひとり》は書籍《ほん》を拈繰《ひねく》って故意《わざ》と何か捜している風を見せていたが、
「有ったよ。」
「ふん。」
「真実《ほんと》に有ったよ。」
「教えてくれ給え。」
「実はやッと思い出したのだ。円とは……何だッたけナ……円とは無限に多数なる正多角形とか何とか言ッたッけ。」と、真面目である。
「馬鹿!」
「何《な》んで?」
「大馬鹿!」
「君よりは少しばかり多智《りこう》な積りでいたが。」
「僕の聞いたのは其《その》円じゃアないんだ。縁だ。」
「だから円だろう。」
「イヤこれは僕が悪かった、君に向って発すべき問ではなかったかも知れない。まア静かに聞き給え、僕の問うたのは……」
「最も活動する自然力を支配する人間は最も冷静だから安心し給え。」
「豪《えら》いよ。」
「勿論! そこで君のいう所のエンとは?」
「帰ろうじゃアないか。帰宿《かえ》って夕飯の時、ゆるゆる論ずる事にしよう。」
「サア帰ろう!」と甲《ひとり》は水力電気論を懐中《ふところ》に押《おし》こんだ。
 かくて仲善き甲乙《ふたり》の青年《わかもの》は、名ばかり公園の丘を下りて温泉宿へ帰る。日は西に傾いて渓《たに》の東の山々は目映《まば》ゆきばかり輝いている。まだ炎熱《あつ》いので甲乙《ふたり》は閉口しながら渓流《たにがわ》に沿うた道を上流《うえ》の方へのぼると、右側の箱根細工を売る店先に一人の男が往来を背にして腰をかけ、品物を手にして店の女主人の談話《はな》しているのを見た。見て行き過ぎると、甲《ひとり》が、
「今あの店にいたのは大友君じゃアなかッたか?」
「僕も、そんな気がした。」
「後姿が似ていた、確かに大友だ。」
「大友なら宿は大東館だ」
「何故?」
「僕が大東館を撰んだのは大友君からはなしを聞いたのだもの。」
「それは面白い。」
「きっと面白い。」
 と話しながら石の門を入ると、庭樹の間から見える縁先に十四五の少女《おとめ》が立っていて、甲乙《ふたり》の姿を見るや、
「神崎様! 朝田様! 一寸来て御覧なさいよ。面白い物がありますから。早く来て御覧なさいよ!」と叫ぶ。
「また蛇が蛙を呑むのじゃアありませんか。」と「水力電気論」を懐にして神崎乙彦が笑いながら庭樹を右に左に避《よ》けて縁先の方へ廻る。少女《おとめ》の室《へや》の隣室《となり》が二人の室なのである。朝田は玄関口へ廻る。
「ほら妙なものでしょう。」と少女の指さす方を見ても別に何も見当らない。神崎はきょろきょろしながら、
「春子さん、何物《なんに》も無いじアありませんか。」
「ほら其処に妙な物が。……貴様《あなた》お眼が悪いのねエ」
「どれです。」
「百日紅《さるすべり》の根に丸い石があるでしょう。」
「あれが如何《どう》したのです。」
「妙でしょう。」
「何故でしょう。」といいながら新工学士神崎は石を拾って不思議そうに眺める。朝田はこの時既に座敷から廻って縁先に来た。
「オイ朝田、春子さんがこの石を妙だろうと言うが君は何と思う。」
「頗《すこぶ》る妙と思うねエ」
「ね朝田|様《さん》、妙でしょう。」と少女《おとめ》はにこにこ。
「そうですとも、大いに妙です。神崎工学士、君は昨夕《ゆうべ》酔払って春子|様《さん》をつかまえ[#「つかまえ」に傍点]てお得意の講義をしていたが忘れたか。」
「ねエ朝田様! その時、神崎様が巻煙草《たばこ》の灰を掌にのせて、この灰が貴女には妙と見えませんかと聞くから、私は何でもないというと、だから貴女は駄目だ、凡《およ》そ宇宙の物、森羅万象、妙ならざるはなく、石も木もこの灰とても面白からざるはなし、それを左様《そう》思わないのは科学の神に帰依しないのだからだ、とか何とか、難事《むずか》しい事をべらべら何時《いつ》までも言うんですもの。私、眠くなって了《しま》ったわ、だからアーメンと言ったら、貴下《あなた》怒っちゃったじゃアありませんか。ねエ朝田|様《さん》。」
「そうですとも、だからその石は頗る妙、大いに面白しと言うんですねエ。」
「神崎様、昨夕の敵打《かたきう》ちよ!」
「たしかに打たれました。けれど春子様、朝田は何時も静粛《しずか》で酒も何にも呑まないで、少しも理窟を申しませんからお互に幸福《しあわせ》ですよ。」
「否《いいえ》、お二人とも随分理窟ばかり言うわ。毎晩毎晩、酔っては討論会を初めますわ!」
 甲乙《ふたり》は噴飯《ふきだ》して、申し合したように湯衣《ゆかた》に着かえて浴場《ゆどの》に逃げだして了《しま》った。
 少女《おとめ》は神崎の捨てた石を拾って、百日紅《さるすべり》の樹に倚りかかって、西の山の端に沈む夕日を眺めながら小声で唱歌をうたっている。
 又《ま》た少女《おとめ》の室《へや》では父と思《おぼ》しき品格よき四十二三の紳士が、この宿の若主人を相手に囲碁に夢中で、石事件の騒ぎなどは一切知らないでパチパチやって御座《ござ》る。そして神崎、朝田の二人が浴室《ゆどの》へ行くと間もなく十八九の愛嬌のある娘が囲碁の室《へや》に来て、
「家兄《にい》さん、小田原の姉様《ねえさん》が参りました。」と淑《しとや》かに通ずる。これを聞いて若主人は顔を上げて、やや不安の色で。
「よろしい、今ゆく。」
「急用なら中止しましょう」と紳士は一寸手を休める。
「何《な》に関《かま》いません、急用という程の事じゃアないんです。」と若主人は直ぐ盤を見つめて、石を下しつつ、
「今の妹の姉にお正というのがいたのを御存じでしょう。」
「そうでした、覚えています。可愛らしい佳《い》い娘さんでした。」と紳士も打ちながら答える。
「そのお正《しょう》がこの春国府津へ嫁《かたず》いたのです。」
「それはお目出度い。」
「ところが余りお目出度くないんでしてな。」
「それは又?」
「どういうものか折合が善くありませんで。」
「それは善くない。」
「それで今日来たのも、又何か持上ったのでしょう。」
「それでは早く行く方が可《よ》い。……」
「なに、どうせ二晩三晩は宿泊《とまる》のですから急がないでも可《い》いのです。」と平気で盤に向っているので、紳士《しんし》もその気になり何時《いつし》かお正《しょう》の問題は忘れて了っている。
 浴室《ゆどの》では神崎、朝田の二人が、今夜の討論会は大友が加わるので一倍、春子さんを驚かすだろうと語り合って楽しんで居る。

     二

 箱根細工の店では大友が種々の談話《はなし》の末、やっとお正の事に及んで
「それじゃア此《この》二月に嫁入したのだね、随分遅い方だね。」
「まア遅いほうでしょうね。貴下《あなた》は何時ごろお正《しょう》さんを御存知で御座います?」
「左様《そう》サ、お正さんが二十位の時だろう、四年前の事だ、だからお正《しょう》さんは二十四の春|嫁《かたず》いたというものだ。」
「全く左様《そう》で御座います。」と女主人《じょしゅじん》は言って、急に声をひそめて、「処《ところ》が可哀そうに余り面白く行かないとか大《だい》ぶん紛糾《ごたごた》があるようで御座います。お正さんは二十四でも未《ま》だ若い盛で御座いますが、旦那は五十|幾歳《いくつ》とかで、二度目だそうで御座いますから無理も御座いませんよ。」
 大友は心に頗る驚いたが別に顔色も変ず、「それは気の毒だ」と言いさま直ぐ起ち上って、「大きにお邪魔をした」とばかり、店を出た。
 大友の心にはこの二三年|前来《ぜんらい》、どうか此世に於て今一度、お正さんに会いたいものだという一念が蟠《わだかま》っていたのである、この女のことを思うと、悲しい、懐しい情感《おもい》に堪え得ないことがある。そして此《この》情想《おもい》に耽る時は人間の浅間しサから我知らず脱れ出ずるような心持になる。あたかも野辺にさすらいて秋の月のさやかに照るをしみじみと眺め入る心持と或は似通えるか。さりとて矢も楯もたまらずお正の許に飛んで行くような激越の情は起らないのであった。
 ただ会いたい。この世で今一度会いたい。縁あらば、せめて一度此世で会いたい。とのみ大友は思いつづけていた。何《なん》ぞその心根の哀しさや。会い度《た》くば幾度《いくたび》にても逢《あえ》る、又た逢える筈の情縁あらば如斯《こん》な哀しい情緒《おもい》は起らぬものである。別れたる、離れたる親子、兄弟、夫婦、朋友、恋人の仲間《あいだ》の、逢いたき情《おもい》とは全然《まる》で異《ちが》っている、「縁あらばこの世で今一度会いたい」との願いの深い哀しみは常に大友の心に潜んでいたのである。
 或夜大友は二三の友と会食して酒のやや廻った時、斯ういう事を言ったことがある「僕の知っている女でお正さんというのがあるが、容貌《きりょう》は十人並で、ただ愛嬌のある女というに過《すぎ》ないけれど、如何にも柔和な、どちらかと言えば今少しはハキハキしてもと思わるる程の性分で何処《どこ》までも正直な、同情《おもいやり》の深そうな娘である。肉づきまでがふっくり[#「ふっくり」に傍点]して、温かそうに思われたが、若し、僕に女房《かかあ》を世話してくれる者があるなら彼様《あんな》のが欲しいものだ」
 それならば大友はお正さんに恋い焦がれていたかというと、全然《まったく》、左様《そう》でない。ただ大友がその時、一寸|左様《そう》思っただけである。
 四年前、やはり秋の初であった。大友がこの温泉場に来て大東館に宿ったのは。
 避暑の客が大方帰ったので居残りの者は我儘放題、女中の手もすい[#「すい」に傍点]たので或夕《あるゆうべ》、大友は宿の娘のお正《しょう》を占領して飲んでいたが、初めは戯談のほれたはれた[#「ほれたはれた」に傍点]問題が、次第に本物になって、大友は遂にその時から三年前の失恋談をはじめた。女中なら「御馳走様」位でお止《やめ》になるところが、お正は本気で聞いている、大友は無論真剣に話している。
「それほどまでに二人が艱難辛苦してやッと結婚して、一緒になったかと思うと間もなく、ポカンと僕を捨てて逃げ出して了ったのです」
「まア痛《ひど》いこと! それで貴下《あなた》はどうなさいました。」とお正の眼は最早《もう》潤んでいる。
「女
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