。あたかも野辺にさすらいて秋の月のさやかに照るをしみじみと眺め入る心持と或は似通えるか。さりとて矢も楯もたまらずお正の許に飛んで行くような激越の情は起らないのであった。
 ただ会いたい。この世で今一度会いたい。縁あらば、せめて一度此世で会いたい。とのみ大友は思いつづけていた。何《なん》ぞその心根の哀しさや。会い度《た》くば幾度《いくたび》にても逢《あえ》る、又た逢える筈の情縁あらば如斯《こん》な哀しい情緒《おもい》は起らぬものである。別れたる、離れたる親子、兄弟、夫婦、朋友、恋人の仲間《あいだ》の、逢いたき情《おもい》とは全然《まる》で異《ちが》っている、「縁あらばこの世で今一度会いたい」との願いの深い哀しみは常に大友の心に潜んでいたのである。
 或夜大友は二三の友と会食して酒のやや廻った時、斯ういう事を言ったことがある「僕の知っている女でお正さんというのがあるが、容貌《きりょう》は十人並で、ただ愛嬌のある女というに過《すぎ》ないけれど、如何にも柔和な、どちらかと言えば今少しはハキハキしてもと思わるる程の性分で何処《どこ》までも正直な、同情《おもいやり》の深そうな娘である。肉づきまでがふっくり[#「ふっくり」に傍点]して、温かそうに思われたが、若し、僕に女房《かかあ》を世話してくれる者があるなら彼様《あんな》のが欲しいものだ」
 それならば大友はお正さんに恋い焦がれていたかというと、全然《まったく》、左様《そう》でない。ただ大友がその時、一寸|左様《そう》思っただけである。
 四年前、やはり秋の初であった。大友がこの温泉場に来て大東館に宿ったのは。
 避暑の客が大方帰ったので居残りの者は我儘放題、女中の手もすい[#「すい」に傍点]たので或夕《あるゆうべ》、大友は宿の娘のお正《しょう》を占領して飲んでいたが、初めは戯談のほれたはれた[#「ほれたはれた」に傍点]問題が、次第に本物になって、大友は遂にその時から三年前の失恋談をはじめた。女中なら「御馳走様」位でお止《やめ》になるところが、お正は本気で聞いている、大友は無論真剣に話している。
「それほどまでに二人が艱難辛苦してやッと結婚して、一緒になったかと思うと間もなく、ポカンと僕を捨てて逃げ出して了ったのです」
「まア痛《ひど》いこと! それで貴下《あなた》はどうなさいました。」とお正の眼は最早《もう》潤んでいる。
「女に捨てられる男は意気地なしだとの、今では、人の噂も理会《わか》りますが、その時の僕は左《さ》まで世にすれ[#「すれ」に傍点]ていなかったのです。ただ夢中です、身も世もあられぬ悲嘆《かなし》さを堪え忍びながら如何《いか》にもして前《もと》の通りに為《し》たいと、恥も外聞もかまわず、出来るだけのことをしたものです。」
「それで駄目なんですか。」
「無論です。」
「まア、」とお正《しょう》は眼に涙を一ぱい含ませている。
「僕が夢中になるだけ、先方《むこう》は益々《ますます》冷て了《しま》う。終《しま》いには僕を見るもイヤだという風になったのです。」そして大友は種々と詳細《こまか》い談話《はなし》をして、自分がどれほどその女から侮辱せられたかを語った。そして彼自身も今更想い起して感慨に堪えぬ様《さま》であった。
「さぞ憎らしかッたでしょうねエ、」
「否《いいえ》、憎らしいとその時思うことが出来るなら左《さ》まで苦しくは無いのです。ただ悲嘆《かなし》かったのです。」
 お正《しょう》の両頬には何時《いつ》しか涙が静かに流れている。
「今は如何なに思っておいでです」とお正《しょう》は声をふるわして聞いた。
「今ですか、今でも憎いとは思っていません。けれどもね、お正《しょう》さん僕が若し彼様《あん》な不幸に会わなかったら、今の僕では無かったろうと思うと、残念で堪らないのです。今日が日まで三年ばかりで大事の月日が、殆《ほとん》ど煙のように過《た》って了いました。僕の心は壊れて了ったのですからねエ」と大友は眼を瞬たいた。お正《しょう》ははんけち[#「はんけち」に傍点]を眼にあてて頭《かしら》を垂れて了った。
「まア可《い》いサ、酒でも飲みましょう」と大友は酌《しゃく》を促がして、黙って飲んでいると、隣室に居《お》る川村という富豪《かねもち》の子息《むすこ》が、酔った勢いで、散歩に出かけようと誘うので、大友はお正《しょう》を連れ、川村は女中三人ばかりを引率して宿を出た。川村の組は勝手にふざけ[#「ふざけ」に傍点]散らして先へ行く、大友とお正《しょう》は相並んで静かに歩む、夜《よ》は冷々として既に膚寒く覚ゆる程の季節ゆえ、渓流《たにがわ》に沿う町はひっそり[#「ひっそり」に傍点]として客らしき者の影さえ見えず、月は冴えに冴えて岩に激する流れは雪のようである。
 大友とお正《しょう》は何時
前へ 次へ
全6ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国木田 独歩 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング