《いつし》か寄添うて歩みながらも言葉一ツ交さないでいたが、川村の連中が遠く離れて森の彼方で声がする頃になると、
「真実《ほんと》に貴下《あなた》はお可哀そうですねエ」と、突然お正《しょう》は頭《かしら》を垂れたまま言った。
「お正《しょう》さん、お正さん?」
「ハイ」とお正《しょう》は顔を上げた。雙眼《そうがん》涙を含める蒼ざめた顔を月はまともに照らす。
「僕はね、若し彼女《あのおんな》がお正《しょう》さんのように柔和《やさし》い人であったら、こんな不幸な男にはならなかったと思います。」
「そんな事は、」とお正はうつむいた、そして二人は人家から離れた、礫《いし》の多い凸凹道を、静かに歩んでいる。
「否《いいえ》、僕は真実《ほんと》に左様《そう》思います、何故《なぜ》彼女がお正《しょう》さんと同じ人で無かったかと思います。」
お正《しょう》は、そっと大友の顔を見上げた。大友は月影に霞む流れの末を見つめていた。
それから二人は暫時《しばら》く無言で歩いていると先へ行った川村の連中が、がやがやと騒ぎながら帰って来たので、一緒に連れ立って宿に帰った。其後三四日大友は滞留していたけれどお正《しょう》には最早、彼《あ》の事に就いては一言も言わず、お給仕ごとに楽しく四方山の話をして、大友は帰京したのである。
爾来《じらい》、四年、大友の恋の傷は癒え、恋人の姿は彼の心から消え去せて了ったけれども、お正《しょう》には如何《どう》かして今一度、縁あらば会いたいものだと願っていたのである。
そして来て見ると、兼ねて期したる事とは言え、さてお正《しょう》は既にいないので、大いに失望した上に、お正《しょう》の身の上の不幸を箱根細工の店で聞かされたので、不快に堪えず、流れを泝《さかのぼ》って渓《たに》の奥まで一人で散歩して見たが少しも面白くない、気は塞《ふさ》ぐ一方であるから、宿に帰って、少し夕飯には時刻が早いが、酒を命じた。
三
大友は、「用があるなら呼ぶから。」と女中をしりぞけて独酌で種々の事を考えながら淋しく飲んでいると宿の娘が「これをお客様が」と差出したのは封紙《うわづつみ》のない手紙である、大友は不審に思い、開き見ると、
[#改行ごとに二字下げ]前略我等両人当所に於て君を待つこと久しとは申兼候え共、本日御投宿と聞いて愉快に堪えず、女中に命じて膳部を弊室《へいしつ》に御運搬の上、大いに語り度く願い候[#二字下げ終わり]
神 崎
朝 田
大 友 様
とあるので、驚いた。何時ごろから来ているのだと聞くと、娘は一週間ばかり前からという。直ぐ次の返事を書いて持たしてやった。
[#改行ごとに二字下げ]お手紙を見て驚喜《きょうき》仕候、両君の室《へや》は隣室の客を驚かす恐れあり、小生の室は御覧の如く独立の離島に候間、徹宵《てっしょう》快談するもさまたげず、是非|此方《このほう》へ御出向き下され度く待《ま》ち上候[#二字下げ終わり]
すると二人がやって来た。
「君は何処を遍歴《へめぐ》って此処《ここ》へ来た?」と朝田が座に着くや着かぬに聞く、
「イヤ、何処も遍歴らない、東京から直きに来た。」
「そこでこの夏は?」
「東京に居た。」
「何をして?」
「遊んで。」
「そいつは下らなかったな」
「全くサ、そして君等は如何《どう》だ。」
「伊豆の温泉めぐりを為《し》た。」
「面白ろい事が有ったか。」
「随分有った。然し同伴者《つれ》が同伴者だからね。」と神崎の方を向く。神崎はただ「フフン」と笑ったばかり、盃をあげて、ちょっと中の模様を見て、ぐびり飲んだ。朝田もお構いなく、
「現に今日も、斯《こ》うだ、僕が縁とは何ぞやとの問に何と答えたものだろうと聞くと、先生、この円と心得て」と畳の上に指先で○《まる》を書き、
「円の定義を平気な顔で暗誦したものだ、君、斯《こ》ういう先生と約一ヶ月半も僕は膳を並べて酒を呑んだのだから堪らない。」
「それはお互いサ」と神崎少しも驚かない。
「然し相かわらず議論は激しかったろう」と大友はにこにこして問うた。
「やったとも」と朝田、
「朝田の愚論は僕も少々聞き飽きた」と神崎の一言に朝田は「フフン」と笑ったばかり。これだから二人が喧嘩を為《し》ないで一ヶ月以上も旅行が出来たのだと大友は思った。
三人とも愉快に談じ酒も相当に利いて十一時に及ぶと、朝田、神崎は自室に引上げた、大友は頭を冷す積りで外に出た。月は中天に昇っている。恰度前年お正《しょう》と共に散歩した晩と同じである。然し前年の場所へ行くは却って思出の種と避けて渓《たに》の上へのぼりながら、途々「縁」に就《つい》て朝田が説いた処を考えた、「縁」は実に「哀」であると沁み沁み感じた。
そして構造《かまえ》の大きな農家らしき家の前に来ると、
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