敷から廻って縁先に来た。
「オイ朝田、春子さんがこの石を妙だろうと言うが君は何と思う。」
「頗《すこぶ》る妙と思うねエ」
「ね朝田|様《さん》、妙でしょう。」と少女《おとめ》はにこにこ。
「そうですとも、大いに妙です。神崎工学士、君は昨夕《ゆうべ》酔払って春子|様《さん》をつかまえ[#「つかまえ」に傍点]てお得意の講義をしていたが忘れたか。」
「ねエ朝田様! その時、神崎様が巻煙草《たばこ》の灰を掌にのせて、この灰が貴女には妙と見えませんかと聞くから、私は何でもないというと、だから貴女は駄目だ、凡《およ》そ宇宙の物、森羅万象、妙ならざるはなく、石も木もこの灰とても面白からざるはなし、それを左様《そう》思わないのは科学の神に帰依しないのだからだ、とか何とか、難事《むずか》しい事をべらべら何時《いつ》までも言うんですもの。私、眠くなって了《しま》ったわ、だからアーメンと言ったら、貴下《あなた》怒っちゃったじゃアありませんか。ねエ朝田|様《さん》。」
「そうですとも、だからその石は頗る妙、大いに面白しと言うんですねエ。」
「神崎様、昨夕の敵打《かたきう》ちよ!」
「たしかに打たれました。けれど春子様、朝田は何時も静粛《しずか》で酒も何にも呑まないで、少しも理窟を申しませんからお互に幸福《しあわせ》ですよ。」
「否《いいえ》、お二人とも随分理窟ばかり言うわ。毎晩毎晩、酔っては討論会を初めますわ!」
 甲乙《ふたり》は噴飯《ふきだ》して、申し合したように湯衣《ゆかた》に着かえて浴場《ゆどの》に逃げだして了《しま》った。
 少女《おとめ》は神崎の捨てた石を拾って、百日紅《さるすべり》の樹に倚りかかって、西の山の端に沈む夕日を眺めながら小声で唱歌をうたっている。
 又《ま》た少女《おとめ》の室《へや》では父と思《おぼ》しき品格よき四十二三の紳士が、この宿の若主人を相手に囲碁に夢中で、石事件の騒ぎなどは一切知らないでパチパチやって御座《ござ》る。そして神崎、朝田の二人が浴室《ゆどの》へ行くと間もなく十八九の愛嬌のある娘が囲碁の室《へや》に来て、
「家兄《にい》さん、小田原の姉様《ねえさん》が参りました。」と淑《しとや》かに通ずる。これを聞いて若主人は顔を上げて、やや不安の色で。
「よろしい、今ゆく。」
「急用なら中止しましょう」と紳士は一寸手を休める。
「何《な》に関《かま》いません、急用という程の事じゃアないんです。」と若主人は直ぐ盤を見つめて、石を下しつつ、
「今の妹の姉にお正というのがいたのを御存じでしょう。」
「そうでした、覚えています。可愛らしい佳《い》い娘さんでした。」と紳士も打ちながら答える。
「そのお正《しょう》がこの春国府津へ嫁《かたず》いたのです。」
「それはお目出度い。」
「ところが余りお目出度くないんでしてな。」
「それは又?」
「どういうものか折合が善くありませんで。」
「それは善くない。」
「それで今日来たのも、又何か持上ったのでしょう。」
「それでは早く行く方が可《よ》い。……」
「なに、どうせ二晩三晩は宿泊《とまる》のですから急がないでも可《い》いのです。」と平気で盤に向っているので、紳士《しんし》もその気になり何時《いつし》かお正《しょう》の問題は忘れて了っている。
 浴室《ゆどの》では神崎、朝田の二人が、今夜の討論会は大友が加わるので一倍、春子さんを驚かすだろうと語り合って楽しんで居る。

     二

 箱根細工の店では大友が種々の談話《はなし》の末、やっとお正の事に及んで
「それじゃア此《この》二月に嫁入したのだね、随分遅い方だね。」
「まア遅いほうでしょうね。貴下《あなた》は何時ごろお正《しょう》さんを御存知で御座います?」
「左様《そう》サ、お正さんが二十位の時だろう、四年前の事だ、だからお正《しょう》さんは二十四の春|嫁《かたず》いたというものだ。」
「全く左様《そう》で御座います。」と女主人《じょしゅじん》は言って、急に声をひそめて、「処《ところ》が可哀そうに余り面白く行かないとか大《だい》ぶん紛糾《ごたごた》があるようで御座います。お正さんは二十四でも未《ま》だ若い盛で御座いますが、旦那は五十|幾歳《いくつ》とかで、二度目だそうで御座いますから無理も御座いませんよ。」
 大友は心に頗る驚いたが別に顔色も変ず、「それは気の毒だ」と言いさま直ぐ起ち上って、「大きにお邪魔をした」とばかり、店を出た。
 大友の心にはこの二三年|前来《ぜんらい》、どうか此世に於て今一度、お正さんに会いたいものだという一念が蟠《わだかま》っていたのである、この女のことを思うと、悲しい、懐しい情感《おもい》に堪え得ないことがある。そして此《この》情想《おもい》に耽る時は人間の浅間しサから我知らず脱れ出ずるような心持になる
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