庭先で「左様なら」と挨拶して此方《こちら》へ来る女がある、その声が如何《いか》にもお正《しょう》に似ているように思われ、つい立ちどまって居《お》ると、往来へ出て月の光を正面《まとも》に向《う》けた顔は確かにお正《しょう》である。
「お正《しょう》さん」大友は思わず叫んだ。
「大友さんでしょう、」と意外にもお正《しょう》は平気で傍へ来たので、
「貴女は僕が来て居るのを知っていたのですか」と驚いて問うた。
「も少し上の方へのぼりながらお話しましょうか。」とお正は小声にて言う。
「貴女さえかまわなければ。」
「私はちっとも、かまいませんの。」
 それではと前年の如く寄添うて、渓《たに》をのぼる。
「真実《ほんと》に妙な御縁なのですよ、私は今日、身の上に就《つい》て兄に相談があるので、突然《だしぬけ》に参りますと、妹が小声で大友さんが来宿《みえ》てるというのでしょう、……」
「それじゃア貴女は僕より一汽車後で来たのだ。」
「そうなの。それで今夜はごたごたして居るから明日お目にかかる積りでいましたの。」
 さて大友はお正《しょう》に会ったけれど、そして忘れ得ぬ前年の夜《よ》と全然《まった》く同じな景色に包まれて同じように寄添うて歩きながらも、別に言うべき事がない。却ってお正は種々の事を話しかける。
「貴下いつかの晩も此様《こんな》でしたね。」
「貴下|彼晩《あのばん》のことを憶えていらっして?」
「憶えていますとも。」
「私はね、何もかも全然《すっかり》憶えていて、貴下の被仰《おっしゃ》った事も皆な覚えていますの。」
「僕もそうです。そして今一度貴女に会いたいとばかり思っていました。今度も実はその積りで来たのです。無論|何家《どっか》へ嫁《かたず》いていて会える筈は無かろうとは思いましたが、それでも若しかと思いましてね……」
「私も今一度で可《い》いから是非お目にかかりたいと思いつづけては、彼晩《あのばん》の事を思い出して何度泣いたか知れません、……ほんとにお嫁になど行かないで兄さんや姉さんを手伝った方が如何《どん》なに可《よ》かったか今では真実《ほんと》に後悔していますのよ。」
 大友は初めてお正が自分を恋していたのを知った、そして自分がお正に会いたいと思うのと、お正が自分に会いたいと願うのとは意味が違うと感じた。自分はお正の恋人であるがお正は自分の恋人でない、ただ自分の恋
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