《たい》や比良目《ひらめ》や海鰻《あなご》や章魚《たこ》が、そこらに投げ出してある。なまぐさい臭《にお》いが人々の立ち騒ぐ袖《そで》や裾《すそ》にあおられて鼻を打つ。
『僕は全くの旅客《りょかく》でこの土地には縁もゆかりもない身だから、知る顔もなければ見覚えの禿《は》げ頭もない。そこで何となくこれらの光景が異様な感を起こさせて、世のさまを一段|鮮《あざ》やかにながめるような心地がした。僕はほとんど自己《おのれ》をわすれてこの雑踏の中《うち》をぶらぶらと歩き、やや物静かなる街《ちまた》の一端《はし》に出た。
『するとすぐ僕の耳に入ったのは琵琶《びわ》の音《ね》であった。そこの店先に一人の琵琶僧が立っていた。歳《とし》のころ四十を五ツ六ツも越えたらしく、幅の広い四角な顔の丈《たけ》の低い肥えた漢子《おとこ》であった。その顔の色、その目の光はちょうど悲しげな琵琶の音にふさわしく、あの咽《むせ》ぶような糸の音につれて謡《うた》う声が沈んで濁って淀《よど》んでいた。巷《ちまた》の人は一人もこの僧を顧みない、家々の者はたれもこの琵琶に耳を傾けるふうも見せない。朝日は輝く浮世はせわしい。
『しかし僕
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