し》の春の半《なか》ごろと記憶しているが、少し体躯《からだ》の具合が悪いのでしばらく保養する気で東京の学校を退《ひ》いて国へ帰る、その帰途《かえりみち》のことであった。大阪から例の瀬戸内通《せとうちがよ》いの汽船に乗って春海《しゅんかい》波平らかな内海《うちうみ》を航するのであるが、ほとんど一昔も前の事であるから、僕もその時の乗合の客がどんな人であったやら、船長がどんな男であったやら、茶菓《ちゃか》を運ぶボーイの顔がどんなであったやら、そんなことは少しも憶《おぼ》えていない。多分僕に茶を注《つ》いでくれた客もあったろうし、甲板の上でいろいろと話しかけた人もあったろうが、何にも記憶に止まっていない。
『ただその時は健康が思わしくないからあまり浮き浮きしないで物思いに沈んでいたに違いない。絶えず甲板の上に出《い》で将来《ゆくすえ》の夢を描いてはこの世における人の身の上のことなどを思いつづけていたことだけは記憶している。もちろん若いものの癖でそれも不思議はないが。そこで僕は、春の日ののどかな光が油のような海面に融《と》けほとんど漣《さざなみ》も立たぬ中を船の船首《へさき》が心地よい音をさせて
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