めたままじっと耳を傾けて夢心地《ゆめごこち》になった。
『こんな晩は君の領分だねエ。』
 秋山の声は大津の耳に入《い》らないらしい。返事もしないでいる。風雨の音を聞いているのか、原稿を見ているのか、はた遠く百里のかなたの人を憶《おも》っているのか、秋山は心のうちで、大津の今の顔、今の目元はわが領分だなと思った。
『君がこれを読むよりか、僕がこの題で話した方がよさそうだ。どうです、君は聴《き》きますか。この原稿はほんの大要《あらまし》を書き止めて置いたのだから読んだってわからないからねエ。』
 夢からさめたような目つきをして大津は目を秋山の方に転じた。
『詳しく話して聞かされるならなおのことさ。』
と秋山が大津の目を見ると、大津の目は少し涙にうるんでいて、異様な光を放っていた。
『僕はなるべく詳しく話すよ、おもしろくないと思ったら、遠慮なく注意してくれたまえ。その代わり僕も遠慮なく話すよ。なんだか僕の方で聞いてもらいたいような心持ちになって来たから妙じゃあないか。』
 秋山は火鉢に炭をついで、鉄瓶《てつびん》の中へ冷めた煖陶《かんびん》を突っ込んだ。
『忘れ得ぬ人は必ずしも忘れてかなうまじき人にあらず、見たまえ僕のこの原稿の劈頭《へきとう》第一に書いてあるのはこの句である。』
 大津はちょっと秋山の前にその原稿を差しいだした。
『ね。それで僕はまずこの句の説明をしようと思う。そうすればおのずからこの文の題意がわかるだろうから。しかし君には大概わかっていると思うけれど。』
『そんなことを言わないで、ずんずんやりたまえよ。僕は世間の読者のつもりで聴いているから。失敬、横になって聴くよ。』
 秋山は煙草をくわえて横になった。右の手で頭を支《ささ》えて大津の顔を見ながら目元に微笑をたたえている。
『親とか子とかまたは朋友《ほうゆう》知己そのほか自分の世話になった教師先輩のごときは、つまり単に忘れ得ぬ人とのみはいえない。忘れてかなうまじき人といわなければならない、そこでここに恩愛の契りもなければ義理もない、ほんの赤の他人であって、本来をいうと忘れてしまったところで人情をも義理をも欠かないで、しかもついに忘れてしまうことのできない人がある。世間一般の者にそういう人があるとは言わないが少なくとも僕にはある。恐らくは君にもあるだろう。』
 秋山は黙ってうなずいた。
『僕が十九の歳《とし》の春の半《なか》ごろと記憶しているが、少し体躯《からだ》の具合が悪いのでしばらく保養する気で東京の学校を退《ひ》いて国へ帰る、その帰途《かえりみち》のことであった。大阪から例の瀬戸内通《せとうちがよ》いの汽船に乗って春海《しゅんかい》波平らかな内海《うちうみ》を航するのであるが、ほとんど一昔も前の事であるから、僕もその時の乗合の客がどんな人であったやら、船長がどんな男であったやら、茶菓《ちゃか》を運ぶボーイの顔がどんなであったやら、そんなことは少しも憶《おぼ》えていない。多分僕に茶を注《つ》いでくれた客もあったろうし、甲板の上でいろいろと話しかけた人もあったろうが、何にも記憶に止まっていない。
『ただその時は健康が思わしくないからあまり浮き浮きしないで物思いに沈んでいたに違いない。絶えず甲板の上に出《い》で将来《ゆくすえ》の夢を描いてはこの世における人の身の上のことなどを思いつづけていたことだけは記憶している。もちろん若いものの癖でそれも不思議はないが。そこで僕は、春の日ののどかな光が油のような海面に融《と》けほとんど漣《さざなみ》も立たぬ中を船の船首《へさき》が心地よい音をさせて水を切って進行するにつれて、霞《かすみ》たなびく島々を迎えては送り、右舷《うげん》左舷《さげん》の景色《けしき》をながめていた。菜の花と麦の青葉とで錦《にしき》を敷いたような島々がまるで霞の奥に浮いているように見える。そのうち船がある小さな島を右舷に見てその磯《いそ》から十町とは離れないところを通るので僕は欄に寄り何心《なにげ》なくその島をながめていた。山の根がたのかしこここに背の低い松が小杜《こもり》を作っているばかりで、見たところ畑《はた》もなく家らしいものも見えない。しんとしてさびしい磯の退潮《ひきしお》の痕《あと》が日に輝《ひか》って、小さな波が水際《みぎわ》をもてあそんでいるらしく長い線《すじ》が白刃《しらは》のように光っては消えている。無人島《むにんとう》でない事はその山よりも高い空で雲雀《ひばり》が啼《な》いているのが微《かす》かに聞こえるのでわかる。田畑ある島と知れけりあげ雲雀、これは僕の老父《おやじ》の句であるが、山のむこうには人家があるに相違ないと僕は思うた。と見るうち退潮《ひきしお》の痕《あと》の日に輝《ひか》っているところに一人の人がいるのが目についた。たしかに
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