男である、また小供《こども》でもない。何かしきりに拾っては籠《かご》か桶《おけ》かに入れているらしい。二三歩《ふたあしみあし》あるいてはしゃがみ[#「しゃがみ」に傍点]、そして何か拾っている。自分はこのさびしい島かげの小さな磯を漁《あさ》っているこの人をじっとながめていた。船が進むにつれて人影が黒い点のようになってしまった、そのうち磯も山も島全体が霞《かすみ》のかなたに消えてしまった。その後|今日《きょう》が日までほとんど十年の間、僕は何度この島かげの顔も知らないこの人を憶《おも》い起こしたろう。これが僕の「忘れ得ぬ人々」の一人である。
『その次は今から五年ばかり以前、正月|元旦《がんたん》を父母の膝下《ひざもと》で祝ってすぐ九州旅行に出かけて、熊本《くまもと》から大分《おおいた》へと九州を横断した時のことであった。
『僕は朝早く弟と共に草鞋《わらじ》脚絆《きゃはん》で元気よく熊本を出発《た》った。その日はまだ日が高いうちに立野《たての》という宿場まで歩いてそこに一泊した。次の日のまだ登らないうち立野を立って、かねての願いで、阿蘇山《あそさん》の白煙《はくえん》を目がけて霜を踏み桟橋を渡り、路を間違えたりしてようやく日中《おひる》時分に絶頂近くまで登り、噴火口に達したのは一時過ぎでもあッただろうか。熊本地方は温暖であるがうえに、風のないよく晴れた日だから、冬ながら六千尺の高山もさまでは寒く感じない。高嶽《たかたけ》の絶頂《いただき》は噴火口から吐き出す水蒸気が凝って白くなっていたがそのほかは満山ほとんど雪を見ないで、ただ枯れ草白く風にそよぎ、焼け土のあるいは赤きあるいは黒きが旧噴火口の名残《なごり》をかしこここに止めて断崖《だんがい》をなし、その荒涼たる、光景は、筆も口もかなわない、これを描くのはまず君の領分だと思う。
『僕らは一度噴火口の縁《ふち》まで登って、しばらくはすさまじい穴をのぞき込んだり四方の大観をほしいままにしたりしていたが、さすがに頂《いただき》は風が寒くってたまらないので、穴から少し下《お》りると阿蘇神社があるそのそばに小さな小屋があって番茶くらいはのませてくれる、そこへ逃げ込んで団飯《むすび》をかじって元気をつけて、また噴火口まで登った。
『その時は日がもうよほど傾いて肥後の平野《へいや》を立てこめている霧靄《もや》が焦げて赤くなってちょうどそこに見える旧噴火口の断崖と同じような色に染まった。円錐形《えんすいけい》にそびえて高く群峰を抜く九重嶺の裾野《すその》の高原数里の枯れ草が一面に夕陽《せきよう》を帯び、空気が水のように澄んでいるので人馬の行くのも見えそうである。天地|寥廓《りょうかく》、しかも足もとではすさまじい響きをして白煙|濛々《もうもう》と立ちのぼりまっすぐに空を衝《つ》き急に折れて高嶽《たかたけ》を掠《かす》め天の一方に消えてしまう。壮といわんか美といわんか惨《さん》といわんか、僕らは黙ったまま一|言《ごん》も出さないでしばらく石像のように立っていた。この時天地|悠々《ゆうゆう》の感、人間存在の不思議の念などが心の底からわいて来るのは自然のことだろうと思う。
『ところでもっとも僕らの感を惹《ひ》いたものは九重嶺と阿蘇山との間の一大窪地《いちだいくぼち》であった。これはかねて世界最大の噴火口の旧跡と聞いていたがなるほど、九重嶺の高原が急に頽《おち》こんでいて数里にわたる絶壁がこの窪地の西を回《めぐ》っているのが眼下によく見える。男体山麓《なんたいさんろく》の噴火口は明媚幽邃《めいびゆうすい》の中禅寺湖と変わっているがこの大噴火口はいつしか五穀実る数千町歩の田園とかわって村落幾個の樹林や麦畑が今しも斜陽静かに輝いている。僕らがその夜、疲れた足を踏みのばして罪のない夢を結ぶを楽しんでいる宮地《みやじ》という宿駅もこの窪地にあるのである。
『いっそのこと山上の小屋に一泊して噴火の夜の光景を見ようかという説も二人の間に出たが、先が急がれるのでいよいよ山を下ることに決めて宮地を指《さ》して下《お》りた。下《くだ》りは登りよりかずっと勾配《こうばい》が緩《ゆる》やかで、山の尾や谷間の枯れ草の間を蛇《へび》のようにうねっている路をたどって急ぐと、村に近づくにつれて枯れ草を着けた馬をいくつか逐《お》いこした。あたりを見るとかしこここの山の尾の小路《こみち》をのどかな鈴の音夕陽を帯びて人馬いくつとなく麓《ふもと》をさして帰りゆくのが数えられる、馬はどれもみな枯れ草を着けている。麓はじきそこに見えていても容易には村へ出ないので、日は暮れかかるし僕らは大急ぎに急いでしまいには走って下りた。
『村に出た時はもう日が暮れて夕闇《ゆうやみ》ほのぐらいころであった。村の夕暮れのにぎわい[#「にぎわい」に傍点]は格別で、壮年|
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