を復習《さらっ》ていますじゃないかね。』
お婆《ばあ》さんの声らしかった。
『そうかな。吉蔵もうお寝よ、朝早く起きてお復習《さら》いな。お婆さん早く被中炉《あんか》を入れておやんな。』
『今すぐ入れてやりますよ。』
勝手の方で下婢《かひ》とお婆さんと顔を見合わしてくすくすと笑った。店の方で大きなあくびの声がした。
『自分が眠いのだよ。』
五十を五つ六つ越えたらしい小さな老母が煤《くす》ぶった被中炉《あんか》に火を入れながらつぶやいた。
店の障子が風に吹かれてがたがたすると思うとパラパラと雨を吹きつける音が微《かす》かにした。
『もう店の戸を引き寄せて置きな、』と主人《あるじ》は怒鳴って、舌打ちをして、
『また降って来やあがった。』
と独言《ひとりごと》のようにつぶやいた。なるほど風が大分《だいぶ》強くなって雨さえ降りだしたようである。
春先とはいえ、寒い寒い霙《みぞれ》まじりの風が広い武蔵野《むさしの》を荒れに荒れて終夜《よもすがら》、真《ま》っ闇《くら》な溝口《みぞのくち》の町の上をほえ狂った。
七番の座敷では十二時過ぎてもまだランプが耿々《こうこう》と輝いている。亀屋で起きている者といえばこの座敷の真ん中で、差し向かいで話している二人の客ばかりである。戸外《そと》は風雨の声いかにもすさまじく、雨戸が絶えず鳴っていた。
『この模様では明日《あした》のお立ちは無理ですぜ。』
と一人が相手の顔を見て言った。これは六番の客である。
『何、別に用事はないのだから明日《あした》一日くらいここで暮らしてもいいんです。』
二人とも顔を赤くして鼻の先を光らしている。そばの膳《ぜん》の上には煖陶《かんびん》が三本乗っていて、杯《さかずき》には酒が残っている。二人とも心地よさそうに体《からだ》をくつろげて、あぐらをかいて、火鉢を中にして煙草を吹かしている、六番の客は袍巻《かいまき》の袖《そで》から白い腕を臂《ひじ》まで出して巻煙草の灰を落としては、喫《す》っている。二人の話しぶりはきわめて卒直であるものの今宵《こよい》初めてこの宿舎《やど》で出合って、何かの口緒《いとぐち》から、二口三口|襖越《ふすまご》しの話があって、あまりのさびしさに六番の客から押しかけて来て、名刺の交換が済むや、酒を命じ、談話《はなし》に実が入って来るや、いつしか丁寧な言葉とぞんざい[#「ぞんざい
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