てちょっと顔をしがめたが、たちまち口の辺《ほとり》に微笑《ほほえみ》をもらして、
『僕か、僕は東京。』
『それでどちらへお越しでございますナ。』
『八王子へ行くのだ。』
 と答えて客はそこに腰を掛け脚絆《きゃはん》の緒《ひも》を解きにかかった。
『旦那《だんな》、東京から八王子なら道が変でございますねエ。』
 主人《あるじ》は不審そうに客のようすを今さらのようにながめて、何か言いたげな口つきをした。客はすぐ気が付いた。
『いや僕は東京だが、今日《きょう》東京から来たのじゃアない、今日は晩《おそ》くなって川崎を出発《たっ》て来たからこんなに暮れてしまったのさ、ちょっと湯をおくれ。』
『早くお湯を持って来ないか。ヘエ随分今日はお寒かったでしょう、八王子の方はまだまだ寒うございます。』
という主人《あるじ》の言葉はあいそ[#「あいそ」に傍点]があっても一体の風《ふう》つきはきわめて無愛嬌《ぶあいきょう》である。年は六十ばかり、肥満《ふと》った体躯《からだ》の上に綿の多い半纒《はんてん》を着ているので肩からじきに太い頭が出て、幅の広い福々《ふくぶく》しい顔の目《まな》じりが下がっている。それでどこかに気むずかしいところが見えている。しかし正直なお爺《やじ》さんだなと客はすぐ思った。
 客が足を洗ッてしまッて、まだふききらぬうち、主人《あるじ》は、
『七番へご案内申しな!』
 と怒鳴ッた。それぎりで客へは何の挨拶《あいさつ》もしない、その後ろ姿を見送りもしなかった。真っ黒な猫《ねこ》が厨房《くりや》の方から来て、そッと主人《あるじ》の高い膝《ひざ》の上にはい上がって丸くなった。主人《あるじ》はこれを知っているのかいないのか、じっと目をふさいでいる。しばらくすると、右の手が煙草箱《たばこいれ》の方へ動いてその太い指が煙草を丸めだした。
『六番さんのお浴湯《ゆ》がすんだら七番のお客さんをご案内申しな!』
 膝の猫がびっくりして飛び下《お》りた。
『ばか! 貴様《きさま》に言ったのじゃないわ。』
 猫はあわてて厨房《くりや》の方へ駆けていってしまった。柱時計がゆるやかに八時を打った。
『お婆《ばあ》さん、吉蔵が眠そうにしているじゃあないか、早く被中炉《あんか》を入れてやってお寝かしな、かわいそうに。』
 主人《あるじ》の声の方が眠そうである、厨房《くりや》の方で、
『吉蔵はここで本
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