はじっとこの琵琶僧をながめて、その琵琶の音に耳を傾けた。この道幅の狭い軒端《のきば》のそろわない、しかもせわしそうな巷《ちまた》の光景がこの琵琶僧とこの琵琶の音とに調和しないようでしかもどこかに深い約束があるように感じられた。あの嗚咽《おえつ》する琵琶の音が巷の軒から軒へと漂うて勇ましげな売り声や、かしましい鉄砧《かなしき》の音と雑《ま》ざって、別に一|道《どう》の清泉が濁波《だくは》の間を潜《くぐ》って流れるようなのを聞いていると、うれしそうな、浮き浮きした、おもしろそうな、忙しそうな顔つきをしている巷の人々の心の底の糸が自然の調べをかなでているように思われた、「忘れえぬ人々」の一人はすなわちこの琵琶僧である。』
 ここまで話して来て大津は静かにその原稿を下に置いてしばらく考え込んでいた。戸外《そと》の雨風の響きは少しも衰えない。秋山は起き直って、
『それから。』
『もうよそう、あまりふけるから。まだいくらもある。北海道|歌志内《うたしな》の鉱夫、大連《だいれん》湾頭の青年漁夫、番匠川《ばんしょうがわ》の瘤《こぶ》ある舟子《ふなこ》など僕が一々この原稿にあるだけを詳しく話すなら夜が明けてしまうよ。とにかく、僕がなぜこれらの人々を忘るることができないかという、それは憶《おも》い起こすからである。なぜ僕が憶い起こすだろうか。僕はそれを君に話して見たいがね。
『要するに僕は絶えず人生の問題に苦しんでいながらまた自己将来の大望《たいもう》に圧せられて自分で苦しんでいる不幸《ふしあわせ》な男である。
『そこで僕は今夜《こよい》のような晩に独《ひと》り夜ふけて燈《ともしび》に向かっているとこの生の孤立を感じて堪《た》え難いほどの哀情を催して来る。その時僕の主我の角《つの》がぼきり折れてしまって、なんだか人懐《ひとなつ》かしくなって来る。いろいろの古い事や友の上を考えだす。その時|油然《ゆぜん》として僕の心に浮かんで来るのはすなわちこれらの人々である。そうでない、これらの人々を見た時の周囲の光景の裡《うち》に立つこれらの人々である。われと他と何の相違があるか、みなこれこの生を天の一方地の一角に享《う》けて悠々《ゆうゆう》たる行路をたどり、相携えて無窮の天に帰る者ではないか、というような感が心の底から起こって来てわれ知らず涙が頬《ほお》をつたうことがある。その時は実に我《われ》も
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