なければ他《ひと》もない、ただたれもかれも懐かしくって、忍ばれて来る、
『僕はその時ほど心の平穏を感ずることはない、その時ほど自由を感ずることはない、その時ほど名利《めいり》競争の俗念消えてすべての物に対する同情の念の深い時はない。
『僕はどうにかしてこの題目で僕の思う存分に書いて見たいと思うている。僕は天下必ず同感の士あることと信ずる。』
 その後二年|経《た》った。
 大津は故《ゆえ》あって東北のある地方に住まっていた。溝口《みぞのくち》の旅宿《やど》で初めてあった秋山との交際は全く絶えた。ちょうど、大津が溝口に泊まった時の時候であったが、雨の降る晩のこと。大津は独《ひと》り机に向かって瞑想《めいそう》に沈んでいた。机の上には二年|前《まえ》秋山に示した原稿と同じの『忘れ得ぬ人々』が置いてあって、その最後に書き加えてあったのは『亀屋《かめや》の主人《あるじ》』であった。
『秋山』ではなかった。



底本:「武蔵野」岩波文庫、岩波書店
   1939(昭和14)年2月15日第1刷発行
   1972(昭和47)年8月16日第37刷改版発行
   2002(平成14)年4月5日第77刷発行
底本の親本:「武蔵野」民友社
   1901(明治34)年3月
初出:「国民之友」
   1898(明治31)年4月
入力:土屋隆
校正:蒋龍
2009年3月28日作成
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