男女《なんにょ》は一日の仕事のしまい[#「しまい」に傍点]に忙しく子供は薄暗い垣根《かきね》の陰や竈《かまど》の火の見える軒先に集まって笑ったり歌ったり泣いたりしている、これはどこの田舎《いなか》も同じことであるが、僕は荒涼たる阿蘇の草原から駆け下りて突然、この人寰《じんかん》に投じた時ほど、これらの光景に搏《う》たれたことはない。二人は疲れた足をひきずって、日暮れて路《みち》遠きを感じながらも、懐《なつ》かしいような心持ちで宮地を今宵《こよい》の当てに歩いた。
『一|村《むら》離れて林や畑《はた》の間をしばらく行くと日はとっぷり暮れて二人の影がはっきりと地上に印するようになった。振り向いて西の空を仰ぐと阿蘇の分派の一峰の右に新月がこの窪地一帯の村落を我物顔《わがものがお》に澄んで蒼味《あおみ》がかった水のような光を放っている。二人は気がついてすぐ頭の上を仰ぐと、昼間は真っ白に立ちのぼる噴煙が月の光を受けて灰色に染まって碧瑠璃《へきるり》の大空を衝《つ》いているさまが、いかにもすさまじくまた美しかった。長さよりも幅の方が長い橋にさしかかったから、幸いとその欄に倚《よ》っかかって疲れきった足を休めながら二人は噴煙のさまのさまざまに変化するをながめたり、聞くともなしに村落の人語の遠くに聞こゆるを聞いたりしていた。すると二人が今来た道の方から空車《からぐるま》らしい荷車の音が林などに反響して虚空《こくう》に響き渡って次第に近づいて来るのが手に取るように聞こえだした。
『しばらくすると朗々《ほがらか》な澄《す》んだ声で流して歩く馬子唄《まごうた》が空車の音につれて漸々《ぜんぜん》と近づいて来た。僕は噴煙をながめたままで耳を傾けて、この声の近づくのを待つともなしに待っていた。
『人影が見えたと思うと「宮地ゃよいところじゃ阿蘇山ふもと」という俗謡《うた》を長く引いてちょうど僕らが立っている橋の少し手前まで流して来たその俗謡《うた》の意《こころ》と悲壮な声とがどんなに僕の情《こころ》を動かしたろう。二十四、五かと思われる屈強な壮漢《わかもの》が手綱《たづな》を牽《ひ》いて僕らの方を見向きもしないで通ってゆくのを僕はじっとみつめていた。夕月の光を背にしていたからその横顔もはっきりとは知れなかったがそのたくましげな体躯《からだ》の黒い輪郭が今も僕の目の底に残っている。
『僕は壮漢《わ
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