えた。無理もない、曾《かつ》て例のないこと、又有り得《う》べからざること、細川に限らず、梅子を知れる青年《わかもの》の何人も想像することの出来ないことである!
封を切て読み下すと、頗《すこぶ》る短い文《ふみ》で、ただ父に代ってこの手紙を書く。今夜直ぐ来て貰いたい是非とのことである、何か父から急にお話したいことがあるそうだとの意味。
細川は直ぐ飛んで往《い》った。「呼びにやるまで来るな!」との老先生の先夜の言葉を今更のように怪しゅう思って、彼は途々《みちみち》この一言《いちごん》を胸に幾度《いくたび》か繰返した、そして一念|端《はし》なくもその夜の先生の怒罵《どば》に触れると急に足が縮《すく》むよう思った。
然し「呼びに来た」のである。不思議の力ありて彼を前より招き後《あと》より推《お》し忽《たちま》ち彼を走らしめつ、彼は躊躇《ためら》うことなく門を入った。
居間に通って見ると、村長が来ている。先生は床に起直って布団《ふとん》に倚掛《よっかか》っている。梅子も座に着いている、一見一座の光景《ようす》が平常《ふだん》と違っている。真面目で、沈んで、のみならず何処《どこ》かに悲哀の色が動いている。
校長は慇懃《いんぎん》に一座に礼をして、さてあらためて富岡老人に向い、
「御病気は如何《いかが》で御座いますか」
「どうも今度の病気は爽快《はっきり》せん」という声さえ衰えて沈んでいる。
「御大事《ごだいじ》になされませんと……」
「イヤ私《わし》も最早《もう》今度はお暇乞《いとまごい》じゃろう」
「そんなことは!」と細川は慰さめる積りで微笑《えみ》を含んだ。しかし老人は真面目で
「私《わし》も自分の死期の解らぬまでには老耄《もうろく》せん、とても長くはあるまいと思う、其処《そこ》で実は少し折入って貴公《おまえ》と相談したいことがあるのじゃ」
かくてその夜は十時頃まで富岡老人の居間は折々|談声《はなしごえ》が聞え折々|寂《しん》と静まり。又折々老人の咳払《せきばらい》が聞えた。
その翌日村長は長文の手紙を東京なる高山法学士の許《もと》に送った、その文の意味は次ぎの如くである、――
御申越《おんもうしこ》し以来一度も書面を出さなかったのは、富岡老人に一条を話すべき機会《おり》が無かったからである。
先日の御手紙には富岡先生と富岡|氏《し》との二個《ふたり》の人がこの老人の心中に戦かっておるとのお言葉が有った、実にその通りで拙者も左様思っていた、然るにちょうど御手紙を頂いた時分以来は、所謂《いわゆ》る富岡先生の暴力|益々《ますます》つのり、二六時中富岡氏の顔出《かおだし》する時は全く無かったと言って宜《よろ》しい位、恐らく夢の中《うち》にも富岡先生は荒《あば》れ廻っていただろうと思われる。
これには理由《わけ》があるので、この秋の初に富岡老人の突然上京せられたるのは全く梅子|嬢《さん》を貴所《あなた》に貰わす目算であったらしい、拙者はそう鑑定している、ところが富岡先生には「東京」が何より禁物なので、東京にゆけば是非、江藤侯井下伯その他|故郷《くに》の先輩の堂々たる有様を見聞せぬわけにはいかぬ、富岡先生に取ってはこれ則《すなわ》ち不平、頑固《がんこ》、偏屈の源因《げんいん》であるから、忽《たちま》ち青筋を立てて了って、的《あて》にしていた貴所《あなた》の挙動《ふるまい》すらも疳癪《かんしゃく》の種となり、遂《つい》に自分で立てた目的を自分で打壊《たたきこわ》して帰国《かえ》って了われたものと拙者は信ずる、然るに帰国って考えてみると梅子|嬢《さん》の為めに老人の描いていた希望は殆《ほと》んど空《くう》になって了った。先生何が何やら解らなくなって了った。其所《そこ》で疳《かん》は益々起る、自暴《やけ》にはなる、酒量は急に増す、気は益々狂う、真《まこと》に言うも気の毒な浅ましい有様となられたのである、と拙者は信ずる。
現に拙者が貴所《あなた》の希望に就き先生を訪うた日などは、先生の梅子|嬢《さん》を罵《ののし》る大声《たいせい》が門の外まで聞えた位で、拙者は機会《おり》悪《わる》しと見、直《ただち》に引返えしたが、倉蔵の話に依ればその頃先生はあの秘蔵子なるあの温順なる梅子|嬢《さん》をすら頭ごなしに叱飛《しかりとば》していたとのことである、以て先生の様子を想像したまわば貴所も意外の感あることと思う。
拙者ばかりでなくこういう風であるから無論富岡を訪《たず》ねる者は滅多になかった、ただ一人、御存知の細川繁氏のみは殆ど毎晩のように訪ねて怒鳴られながらも慰めていたらしい。
然るに昨夕《さくせき》のこと富岡老人近頃|病床《とこ》にある由《よし》を聞いたから見舞に出かけた、もし機会《おり》が可かったら貴所の一条を持出す積りで。老人はな
前へ
次へ
全10ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国木田 独歩 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング