と細川は何気なく言ってそのま自分の居間へ入った。母親はその後姿を見送ってそっと歎息《ためいき》をした。
        五
 その翌日より校長細川は出勤して平常《ふだん》の如く職務を執っていたが彼の胸中には生れ落ちて以来未だ経験したことのない、苦悩が燃えているのである。
 もし富岡先生に罵《のの》しられたばかりなら彼は何とかして思切るほうに悶《もが》いたであろう、その煩悶《はんもん》も苦痛には相違ないが、これ戦《たたかい》である、彼の意力は克《よ》くこの悩に堪《た》えたであろう。
 然《しか》し今の彼の苦悩は自《みずか》ら解く事の出来ない惑《まどい》である、「何故《なぜ》梅子はあの晩泣いていたろう。自分が先生に呼ばれてその居間に入る時、梅子は何故あんな相貌《かおつき》をして涙を流して自分を見たろう。自分が先生に向《むかっ》て自分の希望《のぞみ》を明言した時に梅子は隣室で聞いていたに違いない、もし自分の希望《のぞみ》を全く否《いな》む心なら自分が帰る時あんなに自分を慰める筈《はず》はない……」
「梅子は自分を愛している、少くとも自分が梅子を恋《こい》ていることを不快には思っていない」との一念が執念《しゅうね》くも細川の心に盤居《わだか》まっていて彼はどうしてもこれを否むことが出来ない、然し梅子が平常《ふだん》何人《なんびと》に向ても平等に優しく何人に向ても特種の情態《こころもち》を示したことのないだけ、細川は十分この一念を信ずることが出来ぬ。梅子が泣いて見あげた眼の訴うるが如く謝《わび》るが如かりしを想起《おもいおこ》す毎に細川はうっとり[#「うっとり」に傍点]と夢見心地になり狂わしきまでに恋しさの情《こころ》燃えたつのである。恋、惑、そして恥辱《はじ》、夢にも現《うつつ》にもこの苦悩は彼より離れない。
 或時は断然倉蔵に頼んで窃《ひそ》かに文《ふみ》を送り、我情《わがこころ》のままを梅子に打明けんかとも思い、夜の二時頃まで眠らないで筆を走らしたことがある、然し彼は思返してその手紙を破って了《しま》った。こういう風で十日ばかり経《た》った。或日細川は学校を終えて四時頃、丘の麓《ふもと》を例の如く物思に沈みつつ帰って来ると、倉蔵に出遇《であ》った。倉蔵は手に薬罎《くすりびん》を持ていた。
「先生! どうしてこの頃は全然《まるきり》お見えになりません?」倉蔵はないない 
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