公の娘を自分の物にしたいと狙っておるナ! ふん」
 細川の拳は震えている。
「貴公よく考えてみろ! 貴公は高《たか》が田舎《いなか》の小学校の校長じゃアないか。同じ乃公の塾に居た者でも高山や長谷川は学士だ、それにさえ乃公は娘を与《やら》んのだぞ。身の程を知れ! 馬鹿者!」
 校長の顔は見る見る紅《くれない》をさして来た。その握りしめた拳の上に熱涙がはらはらと落ちた。侯爵伯爵を罵《ののし》る口から能《よ》くもそんな言葉が出る、矢張人物よりも人爵の方が先生には難有《ありがた》いのだろう、見下げ果てた方だと口を衝《つ》いて出ようとする一語を彼はじっと怺《こら》えている。この先生の言としては怪むに足《た》らない、もし理窟《りくつ》を言って対抗する積りなら初めからこの家に出入《でいり》をしないのである。と彼は思い返した。
「エ、それともどうしても娘が欲しいと言うのか、コラ!」
 校長は一語を発しない。
「判然《はっきり》と言え! どうしても欲しいと言うのか、男らしく言え、コラ!」
 細川はきっと頭《かしら》をあげた。
「左様で御座います! 梅子さんを私の同伴者《つれやい》に貰いたいと常に願っております!」きっぱりと言い放って老先生の眼睛《がんせい》を正視した。
「もし乃公が与《や》らぬと言ったらどうする?」
「致し方が御座いません!」
「帰れ! 招喚《よび》にやるまでは来るな、帰れ!」と老人は言放って寝返《ねがえり》して反対《むこう》を向いて了った。
 細川は直ちに起って室《へや》を出ると、突伏して泣いていた梅子は急に起て玄関まで送って来て、
「貴下《あなた》何卒《どうか》父の言葉を気になさらないで……御存知の通りな気性で御座いますから!」とおろおろ声で言った。
「イイエ決して気には留めません、何卒《どうか》先生を御大切《ごたいせつ》に、貴嬢《あなた》も御大事《ごだいじ》……」終《みな》まで言う能《あた》わず、急いで門を出て了った。
 その夜細川が自宅《うち》に帰ったのは十二時過ぎであった。何処《どこ》を徘徊《うろつ》いていたのか、真蒼《まっさお》な顔色をしてさも困憊《がっかり》している様子を寝ないで待っていた母親は不審そうに見ていたが、
「お前又た風邪を引きかえしたのじゃアないかの、未だ十分でないのに余り遅くまで夜あるきをするのは可くないよ」
「何に格別の事は御座いません」 
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