かば》となった。細川繁は風邪《かぜ》を引いていたので四五日先生を訪うことが出来なかったが熱も去ったので或夜七時頃から出かけて行た。
家内《やうち》が珍らしくも寂然《ひっそり》としているので細川は少し不審に思いつつ坐敷に通ると、先生の居間の次ぎの間に梅子が一人裁縫をしていた。細川が入って来ても頭《かしら》を上げないので、愈々|訝《いぶ》かしく能《よ》く見ると蒼《あお》ざめた頬《ほお》に涙が流れているのが洋燈《ランプ》の光にありありと解《わか》る。校長は喫驚《びっく》りして
「お梅さんどうかしたのですか」と驚惶《あわただ》しく訊《たず》ねた。梅子は猶《なお》も頭《かしら》を垂れたまま運ばす針を凝視《みつめ》て黙っている。この時次の室《ま》で
「誰だ?」と老先生が怒鳴った。
「私《わたくし》で御座います。細川で御座います」
「此方《こっち》へ入らんで何をしているのか、用があるからちょっと来い!」
「唯今《ただいま》」と校長が起《た》とうとした時、梅子は急に細川の顔を見上げた、そして涙がはらはらとその膝《ひざ》にこぼれた。ハッと思って細川は躊躇《ためろ》うたが、一言《ひとこと》も発し得ない、止《とど》まることも出来ないでそのまま先生の居間に入った。何とも知れない一種の戦慄《せんりつ》が身うちに漲《みな》ぎって、坐った時には彼の顔は真蒼《まっさお》になっていた。富岡老人は床に就いていてその枕許《まくらもと》に薬罎《くすりびん》が置いてある。
「オヤ何所《どこ》かお悪う御座いますか」と細川は搾《しぼ》り出《いだ》すような声で漸《やっ》と言った。富岡老人一言も発しない、一間は寂《せき》としている、細川は呼吸《いき》も塞《つま》るべく感じた。暫《しばら》くすると、
「細川! 貴公《おまえ》は乃公《おれ》の所へ元来《いったい》何をしに来るのだ、エ?」
寝たまま富岡先生は人を圧《お》しつけるような調声《ちょうし》、人を嘲《あざ》けるような声音《こわね》で言った。細川は一語も発し得ない。
「エ、元来《いったい》何をしに来るのだ? 乃公《おれ》の見舞に来るのか。娘の御|機嫌《きげん》を取りに来るのか、エ? 返事をせえ!」
校長は眼を閉《つぶ》り歯を喰《くい》しばったまま頭《かしら》を垂《た》れ両の拳《こぶし》を膝《ひざ》に乗せている。
「貴公《おまえ》は娘を狙《ねら》っておるナ! 乃
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