」と現われたのが、一別《いちべつ》以来三年会わなんだ桂正作である。
 足も立てられないような汚い畳《たたみ》を二三枚歩いて、狭い急な階子段《はしごだん》を登り、通された座敷は六畳敷、煤《すす》けた天井《てんじょう》低く頭を圧し、畳も黒く壁も黒い。
 けれども黒くないものがある。それは書籍。
 桂ほど書籍を大切にするものはすくない。彼はいかなる書物でもけっして机の上や、座敷の真中に放擲《ほうてき》するようなことなどはしない。こういうと桂は書籍ばかりを大切にするようなれどかならずしもそうでない。彼は身の周囲《まわり》のものすべてを大事にする。
 見ると机もかなりりっぱ。書籍箱もさまで黒くない。彼はその必要品を粗略《そりゃく》にするほど、東洋|豪傑風《ごうけつふう》の美点も悪癖《あくへき》も受けていない。今の流行語でいうと、彼は西国立志編の感化を受けただけにすこぶるハイカラ的である。今にして思う、僕はハイカラの精神の我が桂正作を支配したことを皇天《こうてん》に感謝する。
 机の上を見ると、教科書用の書籍そのほかが、例のごとく整然として重ねてある。その他周囲の物すべてが皆なその処を得て、キチン
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