しろくない」
「どうしてや?」と僕は驚いて聞いた。
「どうしてというわけもないが、君なら三日と辛棒《しんぼう》ができないだろうと思う。第一僕は銀行業からして僕の目的じゃないのだもの」
 二人は話しながら歩いた、車夫のみ先へやり。
「何が君の目的だ」
「工業で身を立つる決心だ」といって正作は微笑し、「僕は毎日この道を往復しながらいろいろ考がえたが、発明に越す大事業はないと思う」
 ワット[#「ワット」に傍線]やステブンソン[#「ステブンソン」に傍線]やヱヂソン[#「ヱヂソン」に傍線]は彼が理想の英雄である。そして西国立志編は彼の聖書《バイブル》である。
 僕のだまって頷《うなず》くを見て、正作はさらに言葉をつぎ
「だから僕は来春《らいはる》は東京へ出ようかと思っている」
「東京へ?」と驚いて問い返した。
「そうサ東京へ。旅費はもうできたが、彼地《むこう》へ行って三月ばかりは食えるだけの金を持っていなければ困るだろうと思う。だから僕は父に頼んで来年の三月までの給料は全部僕が貰うことにした。だから四月早々は出立《たて》るだろうと思う」
 桂正作の計画はすべてこの筆法である。彼はずいぶん少年にありがちな空想を描くけれども、計画を立ててこれを実行する上については少年の時から今日に至るまで、すこしも変わらず、一定の順序を立てて一歩一歩と着々実行してついに目的どおりに成就《じょうじゅ》するのである。むろんこれは西国立志編の感化でもあろう、けれども一つには彼の性情が祖父に似ているからだと思われる。彼の祖父の非凡な人であったことを今ここで詳しく話すことはできないが、その一つをいえば真書太閤記《しんしょたいこうき》三百巻を写すに十年計画を立ててついにみごと写しおわったことがある。僕も桂の家でこれを実見したが今でもその気根《きこん》のおおいなるに驚いている。正作はたしかにこの祖父の血を受けたに違いない。もしくはこの祖父の感化を受けただろうと思う。
 途上種々の話で吾々二人は夕暮に帰宅し、その後僕は毎日のように桂に遇って互いに将来の大望《アンビション》を語りあった。冬期休暇《ふゆやすみ》が終りいよいよ僕は中学校の寄宿舎に帰るべく故郷を出立する前の晩、正作が訪ねてきた。そしていうには今度会うのは東京だろう。三四年は帰郷しないつもりだからと。僕もそのつもりで正作に離別《わかれ》を告げた。
 明治二十七年の春、桂は計画どおりに上京し、東京から二三度手紙を寄こしたけれど、いつも無事を知らすばかりでべつに着京後の様子を告げない。また故郷《くに》の者誰もどうして正作が暮らしているか知らない、父母すら知らない、ただ何人も疑がわないことが一つあった。曰《いわ》く桂正作は何らかの計画を立ててその目的に向かって着々歩を進めているだろうという事実である。
 僕は三十年の春上京した。そして宿所《やど》がきまるや、さっそく築地何町何番地、何の某方《なにがしかた》という桂の住所を訪ねた。この時二人はすでに十九歳。

     下

 午後三時ごろであった。僕は築地何町を隅から隅まで探して、ようやくのことで桂の住家《すみか》を探しあてた。容易に分からぬも道理、某方《なにがしかた》というその某は車屋の主人ならんとは。とある横町の貧しげな家ばかり並んでいる中に挾《はさ》まって九尺間口の二階屋、その二階が「活《い》ける西国立志編」君の巣である。
「桂君という人があなたの処にいますか」
「ヘイいらっしやいます、あの書生さんでしょう」との山の神の挨拶《あいさつ》。声を聞きつけてミシミシと二階を下りてきて「ヤア」と現われたのが、一別《いちべつ》以来三年会わなんだ桂正作である。
 足も立てられないような汚い畳《たたみ》を二三枚歩いて、狭い急な階子段《はしごだん》を登り、通された座敷は六畳敷、煤《すす》けた天井《てんじょう》低く頭を圧し、畳も黒く壁も黒い。
 けれども黒くないものがある。それは書籍。
 桂ほど書籍を大切にするものはすくない。彼はいかなる書物でもけっして机の上や、座敷の真中に放擲《ほうてき》するようなことなどはしない。こういうと桂は書籍ばかりを大切にするようなれどかならずしもそうでない。彼は身の周囲《まわり》のものすべてを大事にする。
 見ると机もかなりりっぱ。書籍箱もさまで黒くない。彼はその必要品を粗略《そりゃく》にするほど、東洋|豪傑風《ごうけつふう》の美点も悪癖《あくへき》も受けていない。今の流行語でいうと、彼は西国立志編の感化を受けただけにすこぶるハイカラ的である。今にして思う、僕はハイカラの精神の我が桂正作を支配したことを皇天《こうてん》に感謝する。
 机の上を見ると、教科書用の書籍そのほかが、例のごとく整然として重ねてある。その他周囲の物すべてが皆なその処を得て、キチン
前へ 次へ
全6ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国木田 独歩 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング