[#「キチン」に傍点]としている。
室の下等にして黒く暗憺《あんたん》なるを憂《うれ》うるなかれ、桂正作はその主義と、その性情によって、すべてこれらの黒くして暗憺《あんたん》たるものをば化して純潔にして高貴、感嘆すべく畏敬《いけい》すべきものとなしているのである。
彼は例のごとくいとも快活に胸臆《きょうおく》を開いて語った。僕の問うがまにまに上京後の彼の生活をば、恥もせず、誇りもせず、平易に、率直に、詳しく話して聞かした。
彼ほど虚栄心のすくない男は珍らしい。その境遇に処《しょ》し、その信ずるところを行なうて、それで満足し安心し、そして勉励《べんれい》している。彼はけっして自分と他人とを比較しない。自分は自分だけのことをなして、運命に安んじて、そして運命を開拓しつつ進んでゆく。
一別以来、正作のなしたことを聞くとじつにこのとおりである。僕は聞いているうちにもますます彼を尊敬する念を禁じえなかった。
彼は計画どおり三カ月の糧《りょう》を蓄えて上京したけれども、坐してこれを食らう男ではなかった。
何がなおもしろい職を得たいものと、まず東京じゅうを足に任《ま》かして遍巡《へめぐ》り歩いた。そして思いついたのは新聞売りと砂書き。九段の公園で砂書きの翁《おやじ》を見て、彼はただちにこれともの語り、事情を明して弟子入りを頼み、それより二三日の間|稽古《けいこ》をして、間もなく大道のかたわらに坐り、一銭、五厘、時には二銭を投げてもらってでたらめを書き、いくらかずつの収入を得た。
ある日、彼は客のなきままに、自分で勝手なことを書いては消し、ワット[#「ワット」に傍線]、ステブンソン[#「ステブンソン」に傍線]、などいう名を書いていると、八歳《やッつ》ばかりの男児《おとこのこ》を連れた衣装《みなり》のよい婦人が前に立った。「ワット」と児供《こども》が読んで、「母上《かあさま》、ワットとは何のこと?」と聞いた。桂は顔を挙げて小供《こども》に解りやすいようにこの大発明家のことを話して聞かし、「坊様も大きくなったらこんな豪《えら》い人におなりなさいよ」といった。そうすると婦人が「失礼ですけれど」といいつつ二十銭銀貨を手渡して立ち去った。
「僕はその銀貨を費《つか》わないでまだ持っている」と正作はいって罪のない微笑をもらした。
彼はかく労働している間、その宿所は木賃宿《きちんやど》、夜は神田の夜学校に行って、もっぱら数学を学んでいたのである。
日清の間が切迫してくるや、彼はすぐと新聞売りになり、号外で意外の金を儲《もう》けた。
かくてその歳も暮れ、二十八年の春になって、彼は首尾よく工手学校の夜学部に入学しえたのである。
かつ問いかつ聞いているうちに夕暮近くなった。
「飯《めし》を食いに行こう!」と桂は突然いって、机の抽斗《ひきだし》から手早く蟇口《がまぐち》を取りだして懐《ふところ》へ入れた。
「どこへ?」と僕は驚いて訊《たず》ねた。
「飯屋へサ」といって正作は立ちかけたので
「イヤ飯なら僕は宿屋《やど》へ帰って食うから心配しないほうがいいよ」
「まアそんなことをいわないでいっしょに食いたまえな。そして今夜はここへ泊りたまえ。まだ話がたくさん残っておる」
僕もその意に従がい、二人して車屋を出た。路《みち》の二三丁も歩いたが、桂はその間も愉快に話しながら、国元《くにもと》のことなど聞き、今年のうちに一度|故郷《くに》に帰りたいなどいっていた。けれども僕は桂の生活の模様から察して、三百里外の故郷へ往復することのとうてい、いうべくして行なうべからざるを思い、べつに気にも留めず、帰れたら一度帰って父母を見舞いたまえくらいの軽い挨拶をしておいた。
「ここだ!」といって桂は先に立って、縄暖簾《なわのれん》を潜《くぐ》った。僕はびっくりして、しばしためらっていると中から「オイ君!」と呼んだ。しかたがないから入ると、桂はほどよき場処に陣取って笑味を含んでこっちを見ている。見廻わすと、桂のほかに四五名の労働者らしい男がいて、長い食卓に着いて、飯を食う者、酒を呑むもの、ことのほか静粛《せいしゅく》である。二人差向いで卓《たく》に倚《よ》るや
「僕は三度三度ここで飯を食うのだ」と桂は平気でいって「君は何を食うか。何でもできるよ」
「何でもいい、僕は」
「そうか、それでは」と桂は女中に向かって二三品命じたが、その名は符牒《ふちょう》のようで僕には解らなかった。しばらくすると、刺身《さしみ》、煮肴《にざかな》、煮〆《にしめ》、汁などが出て飯を盛《も》った茶碗に香物《こうのもの》。
桂はうまそうに食い初めたが、僕は何となく汚らしい気がして食う気にならなかったのをむりに食い初めていると、思わず涙が逆上《こみあ》げてきた。桂正作は武士の子、今や彼が一家は非運
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