の底にあれど、ようするに彼は紳士の子、それが下等社会といっしょに一膳《いちぜん》めし[#「めし」に傍点]に舌打ち鳴らすか、と思って涙ぐんだのではない。けっしてそうではない。いやいやながら箸《はし》を取って二口三口食うや、卒然、僕は思った、ああこの飯はこの有為《ゆうい》なる、勤勉なる、独立自活してみずから教育しつつある少年が、労働して儲《もう》けえた金で、心ばかりの馳走《ちそう》をしてくれる好意だ、それを何ぞやまずそうに食らうとは! 桂はここで三度の食事をするではないか、これをいやいやながら食う自分は彼の竹馬の友といわりょうかと、そう思うと僕は思わず涙を呑んだのである。そして僕はきゅうに胸がすがすがして、桂とともにうまく食事をして、縄暖簾《なわのれん》を出た。
その夜二人で薄い布団《ふとん》にいっしょに寝て、夜の更《ふ》けるのも知らず、小さな豆ランプのおぼつかない光の下《もと》で、故郷《くに》のことやほかの友の上のことや、将来《ゆくすえ》の望みを語りあったことは僕今でも思い起こすと、楽しい懐《なつか》しいその夜の様《さま》が眼の先に浮かんでくる。
その後、僕と桂は互いに往来していたが早くもその年の夏期休課《なつやすみ》が来た。すると一日、桂が僕の下宿屋へ来て、
「僕は故郷《くに》に帰《い》ってこうかと思う。じつはもうきめているのだ」という意外な言葉。
「それはいいけれども君……」と僕はすぐ旅費|等《とう》のことを心配して口を開くと
「じつは金もできているのだ。三十円ばかり貯蓄しているから、往復の旅費と土産物《みやげもの》とで二十円あったらよかろうと思う。三十円みんな費《つか》ってしまうと後で困るからね」というのを聞いて僕は今さらながら彼の用意のほどに感じ入った。彼の話によると二年前からすでに帰省の計画を立ててそのつもりで貯金したとのこと。
どうだ諸君! こういうことはできやすいようで、なかなかできないことだよ。桂は凡人だろう。けれどもそのなすことは非凡ではないか。
そこで僕もおおいに歓《よろこ》んで彼の帰国を送った。彼は二年間の貯蓄の三分の二を平気で擲《なげう》って、錦絵《にしきえ》を買い、反物《たんもの》を買い、母や弟《おとと》や、親戚の女子供を喜ばすべく、欣々然《きんきんぜん》として新橋を立出《た》った。
翌年、三十一年にめでたく学校を卒業し、電気部の技手として横浜の会社に給料十二円で雇われた。
その後|今日《こんにち》まで五年になる。その間彼は何をしたか。ただその職分を忠実に勤めただけか。そうでない!
彼はおおいなることをしている。彼の弟が二人あって、二人とも彼の兄、逃亡した兄に似て手に合わない突飛物《とっぴもの》、一人を五郎といい、一人を荒雄《あらお》という、五郎は正作が横浜の会社に出たと聞くや、国元を飛びだして、東京に来た。正作は五郎のために、所々《しょしょ》奔走《ほんそう》してあるいは商店に入れ、あるいは学僕《がくぼく》としたけれど、五郎はいたるところで失敗し、いたるところを逃げだしてしまう。
けれども正作は根気よく世話をしていたが、ついに五郎を自分のそばに置き、種々に訓戒を加え、西国立志編を繰返して読まし、そして工手学校に入れてしまった。わずかの給料でみずから食《く》らい、弟を養い、三年の間、辛苦《しんく》に辛苦を重ねた結果は三十四年に至って現われ、五郎は技手となって今は東京芝区の某《ぼう》会社に雇われ、まじめに勤労しているのである。
荒雄もまた国を飛びだした。今は正作と五郎と二人でこの弟の処置に苦心している。
今年の春であった。夕暮に僕は横浜|野毛町《のげまち》に桂を訪ねると、宿の者が「桂さんはまだ会社です」というから、会社の様子も見たく、その足で会社を訪《と》うた。
桂の仕事をしている場処に行ってみると、僕は電気の事を詳しく知らないから十分の説明はできないが、一本の太い鉄柱を擁《よう》して数人《すにん》の人が立っていて、正作は一人その鉄柱の周囲を幾度《いくたび》となく廻って熱心に何事かしている。もはや電燈が点《つ》いて白昼《まひる》のごとくこの一群の人を照らしている。人々は黙して正作のするところを見ている。器械に狂いの生じたのを正作が見分《けんぶん》し、修繕しているのらしい。
桂の顔、様子! 彼は無人の地にいて、我を忘れ世界を忘れ、身も魂《たましい》も、今そのなしつつある仕事に打ちこんでいる。僕は桂の容貌《ようぼう》、かくまでにまじめなるを見たことがない。見ているうちに、僕は一種の壮厳《そうごん》に打たれた。
諸君! どうか僕の友のために、杯《さかずき》をあげてくれたまえ、彼の将来を祝福して!
底本:「日本文学全集12 国木田独歩 石川啄木集」集英社
1972(昭和47)
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