「もし僕が西国立志編を読まなかったらどうであったろう。僕の今日あるのはまったくこの書のお蔭《かげ》だ」と。
 けれども西国立志編(スマイルスの自助論《セルフヘルプ》)を読んだものは洋の東西を問わず幾百万人あるかしれないが、桂正作のように、「余《よ》を作りしものはこの書なり」と明言しうる者ははたして幾人あるだろう。
 天が与えた才能からいうと桂は中位の人たるにすぎない。学校における成績も中等で、同級生のうち、彼よりも優《すぐ》れた少年はいくらもいた。また彼はかなりの腕白者《わんぱくもの》で、僕らといっしょにずいぶん荒《あば》れたものである。それで学校においても郷党《きょうとう》にあっても、とくに人から注目せられる少年ではなかった。
 けれども天の与えた性質からいうと、彼は率直で、単純で、そしてどこかに圧《おさ》ゆべからざる勇猛心を持っていた。勇猛心というよりか、敢為《かんい》の気象といったほうがよかろう。すなわち一転すれば冒険心となり、再転すれば山気《やまぎ》となるのである。現《げん》に彼の父は山気のために失敗し、彼の兄は冒険のために死んだ。けれども正作は西国立志編のお蔭で、この気象に訓練を加え、堅実なる有為《ゆうい》の精神としたのである。
 ともかく、彼の父は尋常《じんじょう》の人ではなかった。やはり昔の武士で、維新の戦争にも出てひとかどの功をも立てたのである。体格は骨太《ほねぶと》の頑丈《がんじょう》な作り、その顔は眼《まな》ジリ長く切れ、鼻高く一見して堂々たる容貌《ようぼう》、気象も武人気質《ぶじんかたぎ》で、容易に物に屈しない。であるからもし武人のままで押通したならば、すくなくとも藩閥《はんばつ》の力で今日《こんにち》は人にも知られた将軍になっていたかもしれない。が、彼は維新の戦争から帰るとすぐ「農」の一字に隠れてしまった。隠れたというよりか出なおしたのである。そして「殖産《しょくさん》」という流行語にかぶれてついに破産してしまった。
 桂家の屋敷は元来《もと》、町にあったのを、家運の傾むくとともにこれを小松山の下に運んで建てなおしたので、その時も僕の父などはこういっていた、あれほどのりっぱな屋敷を打壊《ぶちこわ》さないでそのまま人に譲《ゆず》り、その金でべつに建てたらよかろうと。けれども、桂正作の父の気象はこの一事《いちじ》でも解っている。小松山の麓《ふもと》に移ってこの方《かた》は、純粋の百姓になって正作の父は働いているのを僕はしばしば見た。
 であるから正作が西国立志編を読み初めたころは、その家政はよほど困難であったに違いない。けれどもその家庭にはいつも多少の山気《やまぎ》が浮動していたという証拠《しょうこ》には、正作がある日僕に向かって、宅《うち》には田中鶴吉《たなかつるきち》の手紙があると得意らしく語《い》ったことがある。その理由《いわれ》は、桂の父が、当時世間の大評判であった田中鶴吉の小笠原《おがさわら》拓殖《たくしょく》事業《じぎょう》にひどく感服して、わざわざ書面を送って田中に敬意を表したところ、田中がまたすぐ礼状を出してそれが桂の父に届いたという一件、またある日正作が僕に向かい、今から何カ月とかすると蛤《はまぐり》をたくさんご馳走《ちそう》するというから、なぜだと聞くと、父が蛤の繁殖事業を初め、種を取寄せて浜に下ろしたから遠からず、この附近は蛤が非常に採れるようになると答えた。まずこれらの事で家庭の様子も想像することができるのである。
 父の山気を露骨に受けついで、正作の兄は十六の歳《とし》に家を飛びだし音信不通、行方《ゆきがた》知れずになってしまった。ハワイに行ったともいい、南米に行ったとも噂《うわ》させられたが、実際のことは誰も知らなかった。
 小学校を卒業するや、僕は県下の中学校に入ってしまい、しばらく故郷を離れたが正作は家政の都合《つごう》でそういうわけにゆかず、周旋《しゅうせん》する人があって某《なにがし》銀行に出ることになり給料四円か五円かで某町《なにがしまち》まで二里の道程《みちのり》を朝夕《ちょうせき》往復することになった。
 間もなく冬期休課《ふゆやすみ》になり、僕は帰省の途について故郷近く車で来ると、小さな坂がある、その麓で車を下り手荷物を車夫に托し、自分はステッキ一本で坂を登りかけると、僕の五六間さきを歩《ゆ》く少年がある、身に古ぼけたトンビを着て、手に古ぼけた手提《てさげ》カバンを持って、静かに坂を登りつつある、その姿がどうも桂正作に似ているので、
「桂君じゃアないか」と声を掛けた。後ろを振り向いて破顔一笑《はがんいっしょう》したのはまさしく正作。立ち止まって僕をまち
「冬期休課《ふゆやすみ》になったのか」
「そうだ君はまだ銀行に通ってるか」
「ウン、通ってるけれどもすこしもおも
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