やど》、夜は神田の夜学校に行って、もっぱら数学を学んでいたのである。
 日清の間が切迫してくるや、彼はすぐと新聞売りになり、号外で意外の金を儲《もう》けた。
 かくてその歳も暮れ、二十八年の春になって、彼は首尾よく工手学校の夜学部に入学しえたのである。
 かつ問いかつ聞いているうちに夕暮近くなった。
「飯《めし》を食いに行こう!」と桂は突然いって、机の抽斗《ひきだし》から手早く蟇口《がまぐち》を取りだして懐《ふところ》へ入れた。
「どこへ?」と僕は驚いて訊《たず》ねた。
「飯屋へサ」といって正作は立ちかけたので
「イヤ飯なら僕は宿屋《やど》へ帰って食うから心配しないほうがいいよ」
「まアそんなことをいわないでいっしょに食いたまえな。そして今夜はここへ泊りたまえ。まだ話がたくさん残っておる」
 僕もその意に従がい、二人して車屋を出た。路《みち》の二三丁も歩いたが、桂はその間も愉快に話しながら、国元《くにもと》のことなど聞き、今年のうちに一度|故郷《くに》に帰りたいなどいっていた。けれども僕は桂の生活の模様から察して、三百里外の故郷へ往復することのとうてい、いうべくして行なうべからざるを思い、べつに気にも留めず、帰れたら一度帰って父母を見舞いたまえくらいの軽い挨拶をしておいた。
「ここだ!」といって桂は先に立って、縄暖簾《なわのれん》を潜《くぐ》った。僕はびっくりして、しばしためらっていると中から「オイ君!」と呼んだ。しかたがないから入ると、桂はほどよき場処に陣取って笑味を含んでこっちを見ている。見廻わすと、桂のほかに四五名の労働者らしい男がいて、長い食卓に着いて、飯を食う者、酒を呑むもの、ことのほか静粛《せいしゅく》である。二人差向いで卓《たく》に倚《よ》るや
「僕は三度三度ここで飯を食うのだ」と桂は平気でいって「君は何を食うか。何でもできるよ」
「何でもいい、僕は」
「そうか、それでは」と桂は女中に向かって二三品命じたが、その名は符牒《ふちょう》のようで僕には解らなかった。しばらくすると、刺身《さしみ》、煮肴《にざかな》、煮〆《にしめ》、汁などが出て飯を盛《も》った茶碗に香物《こうのもの》。
 桂はうまそうに食い初めたが、僕は何となく汚らしい気がして食う気にならなかったのをむりに食い初めていると、思わず涙が逆上《こみあ》げてきた。桂正作は武士の子、今や彼が一家は非運
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