の底にあれど、ようするに彼は紳士の子、それが下等社会といっしょに一膳《いちぜん》めし[#「めし」に傍点]に舌打ち鳴らすか、と思って涙ぐんだのではない。けっしてそうではない。いやいやながら箸《はし》を取って二口三口食うや、卒然、僕は思った、ああこの飯はこの有為《ゆうい》なる、勤勉なる、独立自活してみずから教育しつつある少年が、労働して儲《もう》けえた金で、心ばかりの馳走《ちそう》をしてくれる好意だ、それを何ぞやまずそうに食らうとは! 桂はここで三度の食事をするではないか、これをいやいやながら食う自分は彼の竹馬の友といわりょうかと、そう思うと僕は思わず涙を呑んだのである。そして僕はきゅうに胸がすがすがして、桂とともにうまく食事をして、縄暖簾《なわのれん》を出た。
その夜二人で薄い布団《ふとん》にいっしょに寝て、夜の更《ふ》けるのも知らず、小さな豆ランプのおぼつかない光の下《もと》で、故郷《くに》のことやほかの友の上のことや、将来《ゆくすえ》の望みを語りあったことは僕今でも思い起こすと、楽しい懐《なつか》しいその夜の様《さま》が眼の先に浮かんでくる。
その後、僕と桂は互いに往来していたが早くもその年の夏期休課《なつやすみ》が来た。すると一日、桂が僕の下宿屋へ来て、
「僕は故郷《くに》に帰《い》ってこうかと思う。じつはもうきめているのだ」という意外な言葉。
「それはいいけれども君……」と僕はすぐ旅費|等《とう》のことを心配して口を開くと
「じつは金もできているのだ。三十円ばかり貯蓄しているから、往復の旅費と土産物《みやげもの》とで二十円あったらよかろうと思う。三十円みんな費《つか》ってしまうと後で困るからね」というのを聞いて僕は今さらながら彼の用意のほどに感じ入った。彼の話によると二年前からすでに帰省の計画を立ててそのつもりで貯金したとのこと。
どうだ諸君! こういうことはできやすいようで、なかなかできないことだよ。桂は凡人だろう。けれどもそのなすことは非凡ではないか。
そこで僕もおおいに歓《よろこ》んで彼の帰国を送った。彼は二年間の貯蓄の三分の二を平気で擲《なげう》って、錦絵《にしきえ》を買い、反物《たんもの》を買い、母や弟《おとと》や、親戚の女子供を喜ばすべく、欣々然《きんきんぜん》として新橋を立出《た》った。
翌年、三十一年にめでたく学校を卒業し、電気部の技
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