都の友へ、B生より
国木田独歩

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)久《ひさ》しぶり

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|端《たん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)だめ[#「だめ」に傍点]

 [#…]:返り点
 (例)不[#レ]求[#二]甚解[#一]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)色々《いろ/\》
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 (前略)
 久《ひさ》しぶりで孤獨《こどく》の生活《せいくわつ》を行《や》つて居《ゐ》る、これも病氣《びやうき》のお蔭《かげ》かも知《し》れない。色々《いろ/\》なことを考《かんが》へて久《ひさ》しぶりで自己《じこ》の存在《そんざい》を自覺《じかく》したやうな氣《き》がする。これは全《まつた》く孤獨《こどく》のお蔭《かげ》だらうと思《おも》ふ。此《この》温泉《をんせん》が果《はた》して物質的《ぶつしつてき》に僕《ぼく》の健康《けんかう》に效能《かうのう》があるか無《な》いか、そんな事《こと》は解《わか》らないが何《なに》しろ温泉《をんせん》は惡《わる》くない。少《すくな》くとも此處《こゝ》の、此家《このや》の温泉《をんせん》は惡《わる》くない。
 森閑《しんかん》とした浴室《ゆどの》、長方形《ちやうはうけい》の浴槽《ゆぶね》、透明《すきとほ》つて玉《たま》のやうな温泉《いでゆ》、これを午後《ごゝ》二|時頃《じごろ》獨占《どくせん》して居《を》ると、くだらない實感《じつかん》からも、夢《ゆめ》のやうな妄想《まうざう》からも脱却《だつきやく》して了《しま》ふ。浴槽《ゆぶね》の一|端《たん》へ後腦《こうなう》を乘《のせ》て一|端《たん》へ爪先《つまさき》を掛《かけ》て、ふわりと身《み》を浮《うか》べて眼《め》を閉《つぶ》る。時《とき》に薄目《うすめ》を開《あけ》て天井際《てんじやうぎは》の光線窓《あかりまど》を見《み》る。碧《みどり》に煌《きら》めく桐《きり》の葉《は》の半分《はんぶん》と、蒼々《さう/\》無際限《むさいげん》の大空《おほぞら》が見《み》える。老人《らうじん》なら南無阿彌陀佛《なむあみだぶつ》/\と口《くち》の中《うち》で唱《とな》へる所《ところ》だ。老人《らうじん》でなくとも此《この》心持《こゝろもち》は同《おな》じである。
 居室《へや》に歸《かへ》つて見《み》ると、ちやんと整頓《かたづい》て居《ゐ》る。出《で》る時《とき》は書物《しよもつ》やら反古《ほご》やら亂雜《らんざつ》極《きは》まつて居《ゐ》たのが、物《もの》各々《おの/\》所《ところ》を得《え》て靜《しづ》かに僕《ぼく》を待《まつ》て居《ゐ》る。ごろりと轉《ころ》げて大《だい》の字《じ》なり、坐團布《ざぶとん》を引寄《ひきよ》せて二《ふた》つに折《をつ》て枕《まくら》にして又《また》も手當次第《てあたりしだい》の書《ほん》を讀《よ》み初《はじ》める。陶淵明《たうえんめい》の所謂《いはゆ》る「不[#レ]求[#二]甚解[#一]」位《くらゐ》は未《ま》だ可《よ》いが時《とき》に一ページ讀《よ》むに一|時間《じかん》もかゝる事《こと》がある。何故《なぜ》なら全然《まる》で他《ほか》の事《こと》を考《かんが》へて居《ゐ》るからである。昨日《きのふ》も君《きみ》の送《おく》つて呉《く》れたチエホフの短篇集《たんぺんしふ》を讀《よ》んで居《ゐ》ると、ツイ何時《いつ》の間《ま》にか「ボズ」さんの事《こと》を考《かんが》へ出《だ》した。
 ボズさんの本名《ほんみやう》は權十《ごんじふ》とか五|郎兵衞《ろべゑ》とかいふのだらうけれど、此《この》土地《とち》の者《もの》は唯《た》だボズさんと呼《よ》び、本人《ほんにん》も平氣《へいき》で返事《へんじ》をして居《ゐ》た。
 此《この》以前《いぜん》僕《ぼく》が此處《こゝ》へ來《き》た時《とき》の事《こと》である、或日《あるひ》の午後《ひるすぎ》僕《ぼく》は溪流《たにがは》の下流《しも》で香魚釣《あゆつり》を行《や》つて居《ゐ》たと思《おも》ひ玉《たま》へ。其《その》場所《ばしよ》が全《まつ》たく僕《ぼく》の氣《き》に入《い》つたのである、後背《うしろ》の崕《がけ》からは雜木《ざふき》が枝《えだ》を重《かさ》ね葉《は》を重《かさ》ねて被《おほ》ひかゝり、前《まへ》は可《かな》り廣《ひろ》い澱《よどみ》が靜《しづか》に渦《うづ》を卷《まい》て流《なが》れて居《ゐ》る。足場《あしば》はわざ/\作《つく》つた樣《やう》に思《おも》はれる程《ほど》、具合《ぐあひ》が可《い》い。此處《こゝ》を發見《みつけ》た時《とき》、僕《ぼく》は思《おも》つた此處《こゝ》で釣《つ》るなら
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