釣《つ》れないでも半日位《はんにちぐらゐ》は辛棒《しんぼう》が出來《でき》ると思《おも》つた。處《ところ》が僕《ぼく》が釣初《つりはじ》めると間《ま》もなく後背《うしろ》から『釣《つ》れますか』と唐突《だしぬけ》に聲《こゑ》を掛《か》けた者《もの》がある。
 振《ふ》り向《む》くと、それがボズさんと後《のち》に知《し》つた老爺《ぢいさん》であつた。七十|近《ちか》い、背《せ》は低《ひく》いが骨太《ほねぶと》の老人《らうじん》で矢張《やはり》釣竿《つりざを》を持《もつ》て居《ゐ》る。
『今初《いまはじ》めた計《ばか》りです。』と言《い》ふ中《うち》、浮木《うき》がグイと沈《しづ》んだから合《あは》すと、餌釣《ゑづり》としては、中々《なか/\》大《おほき》いのが上《あが》つた。
『此處《こゝ》は可《か》なり釣《つ》れます。』と老爺《ぢいさん》は僕《ぼく》の直《す》ぐ傍《そば》に腰《こし》を下《おろ》して煙草《たばこ》を喫《す》ひだした。けれど一人《ひとり》が竿《さを》を出《だ》し得《う》る丈《だけ》の場處《ばしよ》だからボズさんは唯《たゞ》見物《けんぶつ》をして居《ゐ》た。
 間《ま》もなく又《また》一尾《いつぴき》上《あ》げるとボズさん、
『旦那《だんな》はお上手《じやうず》だ。』
『だめ[#「だめ」に傍点]だよ。』
『イヤさうでない。』
『これでも上手《じやうず》の中《うち》かね。』
『此《この》温泉《をんせん》に來《く》るお客《きやく》さんの中《うち》じア旦那《だんな》が一|等《とう》だ。』と大《おほ》げさ[#「げさ」に傍点]に贊《ほ》めそやす。
『何《なに》しろ道具《だうぐ》が可《い》い。』と言《い》はれたので僕《ぼく》は思《おも》はず噴飯《ふき》だし、
『それじア道具《だうぐ》が釣《つ》るのだ、ハ、ハ、……』
 ボズさん少《すこ》しく狼狽《まごつ》いて、
『イヤ其《それ》は誰《だれ》だつて道具《だうぐ》に由《よ》ります。如何《いく》ら上手《じやうず》でも道具《だうぐ》が惡《わる》いと十|尾《ぴき》釣《つ》れるところは五|尾《ひき》も釣《つ》れません。』
 それから二人《ふたり》種々《いろ/\》の談話《はなし》をして居《を》る中《うち》に懇意《こんい》になり、ボズさんが遠慮《ゑんりよ》なく言《い》ふ處《ところ》によると僕《ぼく》の發見《みつけ》た場所《ばしよ》はボズさんのあじろ[#「あじろ」に傍点]の一《ひとつ》で、足場《あしば》はボズさんが作《つく》つた事《こと》、東京《とうきやう》の客《きやく》が連《つ》れて行《ゆ》けといふから一緒《いつしよ》に出《で》ると下手《へた》の癖《くせ》に釣《つ》れないと怒《おこ》つて直《す》ぐ止《よ》す事《こと》、釣《つ》れないと言《い》つて怒《おこ》る奴《やつ》が一|番《ばん》馬鹿《ばか》だといふ事《こと》、温泉《をんせん》に來《く》る東京《とうきやう》の客《きやく》には斯《か》ういふ馬鹿《ばか》が多《おほ》い事《こと》、魚《うを》でも生命《いのち》は惜《をし》いといふ事《こと》等《とう》であつた。
 其日《そのひ》はそれで別《わか》れ、其後《そのご》は互《たがひ》に誘《さそ》ひ合《あ》つて釣《つり》に出掛《でかけ》て居《ゐ》たが、ボズさんの家《うち》は一|室《ま》しかない古《ふる》い茅屋《わらや》で其處《そこ》へ獨《ひとり》でわびしげ[#「わびしげ」に傍点]に住《す》んで居《ゐ》たのである。何《なん》でも無遠慮《ぶゑんりよ》に話《はな》す老人《らうじん》が身《み》の上《うへ》の事《こと》は成《な》る可《べ》く避《さ》けて言《い》はないやうにして居《ゐ》た。けれど遠《とほ》まはしに聞《き》き出《だ》した處《ところ》によると、田之浦《たのうら》の者《もの》で倅夫婦《せがれふうふ》は百姓《ひやくしやう》をして可《か》なりの生活《くらし》をして居《ゐ》るが、其《その》夫婦《ふうふ》のしうち[#「しうち」に傍点]が氣《き》に喰《くは》ぬと言《い》つて十|何年《なんねん》も前《まへ》から一人《ひとり》で此處《こゝ》に住《す》んで居《ゐ》るらしい、そして倅《せがれ》から食《く》ふだけの仕送《しおく》りを爲《し》て貰《もら》つてる樣子《やうす》である。成程《なるほど》さう言《い》へば何處《どこ》か固拗《かたくな》のところもあるが、僕《ぼく》の思《おも》ふには最初《さいしよ》は頑固《ぐわんこ》で行《や》つたのながら後《のち》には却《かへ》つて孤獨《こどく》のわび住《ずま》ひが氣樂《きらく》になつて來《き》たのではあるまいか。世《よ》を遁《の》がれた人《ひと》の趣《おもむき》があるのは其《その》理由《わけ》であらう。
 其處《そこ》で僕《ぼく》は昨日《きのふ》チエホフ[#「チエホフ」に傍線]の『ブラツクモ
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