ンク』を讀《よみ》さして思《おも》はずボズさんの事《こと》を考《かんが》へ出《だ》し、其《その》以前《いぜん》二人《ふたり》が溪流《たにがは》の奧深《おくふか》く泝《さかのぼ》つて「やまめ」を釣《つ》つた事《こと》など、それからそれへと考《かんが》へると堪《たま》らなくなつて來《き》た。實《じつ》は今度《こんど》來《き》て見《み》ると、ボズさんが居《ゐ》ない。昨年《きよねん》田之浦《たのうら》の本家《うち》へ歸《かへ》つて亡《なく》なつたとの事《こと》である。
 事實《じゝつ》、此世《このよ》に亡《な》い人《ひと》かも知《し》れないが、僕《ぼく》の眼《め》にはあり/\と見《み》える、菅笠《すげがさ》を冠《かぶ》つた老爺《らうや》のボズさんが細雨《さいう》の中《うち》に立《たつ》て居《ゐ》る。
『病氣《びやうき》に良《よ》くない、』『雨《あめ》が降《ふ》りさうですから』など宿《やど》の者《もの》がとめるのも聞《き》かず、僕《ぼく》は竿《さを》を持《もつ》て出掛《でか》けた。人家《じんか》を離《はな》れて四五|丁《ちやう》も泝《さかのぼ》ると既《すで》に路《みち》もなければ畑《はたけ》もない。たゞ左右《さいう》の斷崕《だんがい》と其間《そのあひだ》を迂回《うね》り流《なが》るゝ溪水《たにがは》ばかりである。瀬《せ》を辿《たど》つて奧《おく》へ奧《おく》へと泝《のぼ》るに連《つ》れて、此處彼處《こゝかしこ》、舊遊《きういう》の澱《よどみ》の小蔭《こかげ》にはボズさんの菅笠《すげがさ》が見《み》えるやうである。嘗《かつ》てボズさんと辨當《べんたう》を食《た》べた事《こと》のある、平《ひらた》い岩《いは》まで來《く》ると、流石《さすが》に僕《ぼく》も疲《つか》れて了《しま》つた。元《もと》より釣《つ》る氣《き》は少《すこ》しもない。岩《いは》の上《うへ》へ立《たつ》てジツ[#「ジツ」に傍点]として居《ゐ》ると寂《さび》しいこと、靜《しづ》かなこと、深谷《しんこく》の氣《き》が身《み》に迫《せま》つて來《く》る。
 暫時《しばら》くすると箱根《はこね》へ越《こ》す峻嶺《しゆんれい》から雨《あめ》を吹《ふ》き下《おろ》して來《き》た、霧《きり》のやうな雨《あめ》が斜《なゝめ》に僕《ぼく》を掠《かす》めて飛《と》ぶ。直《す》ぐ頭《あたま》の上《うへ》の草山《くさやま》を灰色《はひいろ》の雲《くも》が切《き》れ/″\になつて駈《はし》る。
『ボズさん!』と僕《ぼく》は思《おも》はず涙聲《なみだごゑ》で呼《よ》んだ。君《きみ》、狂氣《きちがひ》の眞似《まね》をすると言《い》ひ玉《たま》ふか。僕《ぼく》は實《じつ》に滿眼《まんがん》の涙《なんだ》を落《お》つるに任《ま》かした。(畧)



底本:「定本 国木田独歩全集 第四巻」学習研究社
   1966(昭和41)年2月10日初版発行
   1978(昭和53)年3月1日増訂版発行
   1995(平成7)年7月3日増補版発行
入力:鈴木厚司
校正:mayu
2001年11月7日公開
2004年2月6日修正
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